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有賀泰治ブログ

12月の経営方針共有勉強会

今月のテーマ

《 ハガキ 》

1、俳優 高倉 健

11月、俳優の高倉健さんが亡くなりました。私の高校時代、流行りだった任侠映画やヤクザ映画に出ていて前科者の役で人を殺し、仁義のために自分の命をかける一匹狼の役がほとんどでした。
男らしくカッコいい! 任侠の生き方に憧れを抱いていた事を思い出します。しかし、その姿がいつの間にか銀幕から消え、次に見たのが1977年の映画「八甲田山」でした。その後数々の邦画に出演していましたが、私は邦画をあまり見なくなっていましたので高倉健さんの印象はヤクザ映画の主役というイメージがいまだに強く残っています。
亡くなられて、報道される中で、「自分の生き方や人生が映画にでる」人生そのものや人間性の大切さを語られていました。プライベートは全く公開しないが、人との触れ合いを大切にしていたことが報じられていました。
関わりの持った方へ手紙を送り、感じたことを率直に書かれたり、手紙をもらったら必ず一人一人に返事を書いていたようです。
出演依頼には手紙をもらい、真心のこもった手紙の書けるプロデューサーや監督だけの作品にしか出演しないと言っていました。依頼者の人間性を感じてでないと関わらないという強い意志が感じられました。
他にも高倉健の人々の心を揺らす手紙のエピソードはたくさんあります。
送る人に感動を与える手紙にはいくつもの物語があるのが感じられる高倉健の報道でした。

2、県会報告

学歴は地元の県立高校を卒業しただけ、職業は農業、松本市の前市長有賀 正氏です。
市長になるまでの16年間は39歳の時に初当選した長野県議会議員を務めていました。政党は社民党でむろん日本の与党政権ではありませんでした。
氏がなぜ…!そんな中、長野県第二の市、松本で市長になれたか・・・
色々な理由はありますが、結果、有賀氏を心のそこから応援してくれる人が多かったことだと思います。
応援者の心を掴めただろう、一つに、ハガキを書くことを県会議員時代、16年間続けていたことがありました。
県の議会が終わったころ、必ずその都度支援者に送る「有賀 正の県会報告」のハガキです。自己の主張や信念を後援者に伝えるには、時々送るハガキはとても効果があったと思います。
宛名の裏面はギッシリと書かれた自分の考えや活動報告と議会報告でした。数千人の後援者に送るハガキは、現在のようにパソコンやワープロが発達していない時代、ガリ版刷りで、手書きの宛名、秘書にやってもらうことはあったにせよ、大変な時間と費用がかかったと思います。(何処かの県の議員さんのように切手代をごまかすのとは大違いです。)
そんな、地道な行動が将来の市長となり得るきっかけになったことだと思います。

3、一日30枚のハガキが目標
・・・・・坂田道信

実に多くのハガキを書くんですね。なぜ一日30枚のハガキを書くか!?
師匠に教えていただいたことを愚直に続けました。

一日30枚書けば個人も組織も発展すると教えられました。
会社なら社長が・・・
組織ならグループ長が・・・
個人ならその人が・・・
30枚書けば必ずそのグループが発展し、個人が成長すると・・・

4、ハガキ道に生きる
・・・・・坂田道信

① 人生を豊かに生きる知恵を教示

ハガキは、粗末でもいい、下手でもいい、違い字があってもいい、とにかく書くことが大事だとお勧めしています。
私の師匠、森信三先生は
ハガキを書くこと、
履物を揃えること、
挨拶すること、
半身浴、
飯菜別咀しゃく法、
玄米食、
無枕安眠法、
腰骨を立てること、
紙くずを拾う、
等々。日常で心掛けるならば誰にもできる、人生を豊かに生きる人の道を教えてくださるのでした。
ある春の一日、三人の子どもと森先生をお尋ねしたことがあります。森先生は自分の背中を触らせながら子供に腰骨を立てる稽古をしてくださりました。・・・・・
人がそれぞれ自分流で物を見て、自分流に生きやすいように楽しく生きるのが人生でしょうか。私は森先生と接するうちにそれを触媒にして、自分の内なるものによって今日まで生きさせていただいたのでしょか。改めて縁に感謝して、ありがとうございましたと森先生にお礼を申し上げたいと思います。


私が、ハガキと出会ったのは1971年のことです。松山の研修会で「全一学」の祖である森信三先生に巡り会えたのです。その時森先生はこう言われました。
「義務教育を終えたらな、最低三つのことを実行しなさい。一つはあいさつができること、二つはおじぎができること、そして、三つ目がハガキを自由自在に書くことです。」
ところが、ハガキを書く段階になってハタと困りました。漢字もろくに知らないのです。そこで小学校の五、六年生が書くようなハガキを書こうと思いました。しかし、平仮名ばかりの文章ではまたバカにされますから、一枚のハガキに最低三個の漢字を入れようと、辞書を引きながら書きました。最初の一枚はずいぶん難儀しました。たぶん二、三時間かかったと記憶しています。
ところが、繰り返しているうちに、十分もかからず上手に書けるようになりました。そうすると不思議なもので、私のような者でも「ハガキなんて簡単に書けるよ」と内心自慢するようになります。
ちょうどその時です。「坂田さんハガキは書くものではないですよ。書かせていただくものですよ」
はっと気づきました。ありがたい、書いても書いても書ききれないほど多くの友達をいただいているのだ、それがわかりだして私のハガキが本当のハガキになったのです。ハガキを書く作業は、相手の名前をお借りして自分自身を見つめ、深めるということでもあるのです。それを、私は教わりました。
「ハガキを書くのは下手でもいい」下手であっても素直に自分のありのままの姿が出ているハガキが一番なのです。

③ ハガキの効果

同世代の広島カープ山本浩二選手が全盛期だった頃の年収と私の年収が同じになったことがあります・・・・・
高校を4年かけ卒業し、実家で農業をし飯が食えないから大工の見習いをする。それでも食えない私は二十九歳の時に森信三先生と出逢い、その出逢いから複写ハガキの講演を聞きました。
8年間修行した大工の親方から、「坂田さん、あんた高等学校でられとるか?」それまで親方は中卒だと思うてバカにされたんです。
ところが、四十三歳になったらガラッと変わりました。私は皆さんの前に立たせてもらうようになりました。今まで一度も人の前に立ったことのない男が、突然にロータリー、ライオンズ、大学の教授、学校の先生、県議会の先生が私の講演を聞いてくださるのでした。
二十九歳の時に知った複写ハガキを愚直に出しつずけた結果でした。

5、真理は現実の唯中にあり 
・・・・・森 信三 (至知選書「現代の覚者たち」竹井出版より )

ハガキ道について
「ハガキの活用度いかんで、その人の人生の充実度がわかる」
「ハガキ活用の達人たるべし」と、 ハガキの活用をすすめられています。
たった一枚のハガキで、しかもたったひと言の言葉で人を慰めたり、 励ましたりできるとしたら、 世にこれほど意義のあることも少ないですからね(笑)
しかし、普通はなかなか億劫がって書かないですね。
参考までにいいますとね、 手紙の返事はすぐその場で片付けるが賢明です。
ていねいにと考えて遅れるより、むしろ、拙速を可としたほうがいいですよ。
だから、人間、億劫がる心を、刻々と切り捨てねば、ね。 年をとるほどそれがすさまじくならねば、と思いますね。

6、ゆるやかなつながり

米国の社会学者グラノヴェターが1973年に発表した。『弱い紐帯の強さ』。
仕事や人脈、また自分の情報に役立つのは、自分を知る家族や親友などの「強いつながり」よりむしろ、パーティーで知り合った程度の「強いつながり」であることを実証した研究で知られる。
なぜこの名前を出すかといえば、IT社会の人間関係について発信する論客の東浩紀さん、佐々木俊尚さんが、同じような著書で取り上げていたからだ。「弱いつながり」を大切にすることが、成長につながる、という例としてである。
ソーシャルメディアの発展などもあり、誰でもどこでも「つなが」ことができる時代。その分、自分の内面が外にさらされ、時に傷ついたりもする。だがそれを嫌がって、「いつもの仲間」とだけ接していると、居心地はいいかもしれないが、互いの人柄や関心を知り尽くしているだけに、社会は予定調和の内容に終始し、知性と感性の触発は乏しくなる。
少し勇気を出して、新しい出会いに踏み出したり、切れかかっていたつながりを、結び直してはどうか。
“ 10人の本当の友人を作る” といっても、それは、50人、100人という “ゆるやかなつながり”を見直すこともいかがでしょうか!

7、「20歳の君へ」と題する手紙を受け取った。

差出人は10歳の時の自分。地域の「2分の1成人式」に出席した際、書いた手紙を成人式で手渡されたのだ。
青年は手紙を読み返し、痛感した。
自分があるのは、「何があっても頑張り抜け」と書いた当時の自分、そして、多くの人に支えられたおかげだと。
手書きの文字、紙の手触りが「感謝」の思いを掘り起こしたかもしれない。
相手の幸福を思う真心が、いつものすぐに届くとは限らない。それでも、いつかは届くと信じ真心の行動を貫きたい。

8、一文字
・・・・・新聞切り抜き

随分前になるが、短期の入院をした。当時、多くの友から激励の手紙をもらった。多くの手紙からは身にしみる一文をたくさん見いだすことができた。
自身も、苦難と闘う友に何度となく送った言葉があったが、受ける立場になって、あらためて、言葉に込められた思いの深さを実感した。
「文は人なり」という。文章には、書き手の人柄や人間性が出る。病院という閉じた世界にいるせいか、文面から、まるで贈り主が目の前に現れる感じさえして、とても勇気づけられたことを覚えている。
言葉は、心そのものである。文によって、人は心を通わせ、心の翼を自在に広げることができる。一文字でもおろそかにしまい、と心に期す。

9、桂小金治さんを支えた親父の言葉
・・・・・落語家・桂小金治さんが亡くなられました。享年88歳。

「人生を支えた言葉」

落語の道に入ったのは、戦後間もなくの頃でした。僕の家は空襲で焼けてしまったので、焼け野が原の中でトタンを拾い集めて畳三畳敷きの小さな小屋をこしらえました。お袋と妹を疎開先に残し、親父と僕はここで雨露をしのいだんです。
親父は腕の良い職人だから、知っている仲間の店を手伝って給金をもらう。ところが、僕は金を稼ごうにも手に職がない。そんな時、たまたま焼け残った親父の着物が三枚あることを知って、「着物を着てできる商売はないか」と考えたんです。ふと思い出したのが親父がいつも連れていってくれていた寄席でした。着物一つでできる仕事といえば噺家、本当に単純な発想からのスタートでした。
親父に相談すると「自分の好きな道を行け。ただしいつも一所懸命やれ」とそれだけ。それで、さっそく「弟子にしてください」と新宿末広亭の玄関をくぐったんですが、何しろ戦後の物のない時代、噺家に弟子を取る余裕などありません。見習いのような下働きを許されて、楽屋で働いているうちに関西出身の桂小文治師匠から声をかけていただき、正式に弟子入りを許されたんです。これが僕の幸運の始まりでした。
よく人様から「噺家の修業は大変だったんでしょ」などと聞かれることがありますが、修業が大変なのは当たり前。弱音を吐いたことも辛いと思ったこともありません。
いま思うと僕が落語界に入れたのも、親父の言葉を忠実に守っていたからです。
一つには「何でもいいと思ったらすぐにやれ」という言葉を信じて落語界に飛び込んだこと、そして見習い時代には、魚屋の手伝いで身につけた「自分の目で見て仕事を探せ」という教えを実践して楽屋をかけずり回ったことです。そういう働きぶりが小文治師匠の目に留まり、「おまえ、よう働くやっちゃな」と気に入っていただいたわけですから、親父のおかげでいまの僕があると言っていいでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・この記事は『致知』2003年10月号に掲載されたものです。

10、今月の言葉

人柄
花は香り、人は人柄
…………………月刊誌『致知』

本の効用
本を読んだら美人になる
…………………坂本健一(古書店「青空書房」店主)

贈り物
文学とか絵とかいうのは、人間の生んだ最高の贈り物
…………………坂本健一(古書店「青空書房」店主)

未見の我(われ)
歴史を学ぶ究極の目的は、自分を知ること、つまり
「未見の我」に出会うためにある
…………………占部賢志(中村学園大学教授)

すぐにやる
気づいたらすぐやる人が成功する
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^丸淳一(アスカ社長)

言葉の力
自分の使っている言葉が、自分の人生を支配する
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^佐藤富雄(理学博士)

チャンス
0.1パーセントでも0.5パーセントでも成長する努力を積み重ねている人だけにチャンスは訪れる
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^澤岡昭(大同大学学長)

本物
本物の人間とは、「言っていることと、やっていることが一致している人」 
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^鍵山秀三郎(日本を美しくする会相談役)

思い
心の中でどういう思いを抱いているかによって、その人の性格は変わっていく
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^稲盛和夫(京セラ名誉会長) 

正しい努力
人は正しい努力を積み重ねていくと、必ず道が開けていく
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^小田島裕一(大和教育研究所代表)

逆境と順境
逆境にあって、悲観せず。順境にあって、慢心せず
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^馬田 一(JFEホールディングス社長)

やるか、やらないか
能力なんか関係ない。やるか、やらないか、それだけ
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^辻口博啓(パティシエ)

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