2月の経営方針共有勉強会
経営方針の勉強会といい、私の1ヶ月の体験や情報を講和して、社員の皆さんに参考になるよう、何年も続けています。
また、下記にある資料など読んできた感想を皆で語っていただきます。
今月は沢山ありました。A4で21ページにもなってしまいました。これでも10ページほど削除しました。・・・・・・
2011年2月
経営方針共有勉強会・資料
1、 ビジネスは「心の時代」に入った!
人間の幸せとは何なのか。
お金や家族があって、似たような環境でも、幸せな人とそうでない人がいるということは、環境そのものが幸せをもたらすのではなく、幸せを規定するかどうかを決定しているのは、ただ自分の心である。
そして、お金や家族、あるいは、地位や名声といったものは、幸せを喚起しやすい環境要因となり得るけれども、それのみで幸せを感じるわけではなく、実は、それらを得よううとする過程、つまり、お金を儲けようと日々努力する過程に、家庭を育むための育児や家事労働の家庭に、地位や名声を得ようとして働く日々の労働や社会活動の家庭において発生する精神状態に起因するのである。
そのときは、本来の目的であったお金や家族、地位や名声といった結果はさして重要ではなくなるが、実は行為そのものが目的とされていくことで、かえって好ましい結果を招き、新しい地位が与えられ、環境が改善される。この環境によって幸福感がより高まっていくという。
仕事でも勉強でも、あるいは趣味や社会活動、子育てなどの場面においても、ある期間、一つのことに夢中になって没入した経験は誰にもあるはずだ。
こういうときはたいてい、その事がすべてにおいて優先し、時間も忘れるほどのめり込む。報酬や見返りなどはまったく気にならず、ただ、そのことに没頭していることが何よりも楽しく、その時間が充実している。そして、驚くほど短期でめきめき腕が上達したり成果も上がっていく。そんな感覚を覚えたはずである。
場合によっては、そのことに没頭するための願ってもない状態が、頼みもしないのに、突然、自分の下に次々と舞い込んでくるような、そんな不思議な体験をしている人がいる。
このような心の状態を「フロー(FLOW)」状態と名付けた、心理学者がいる。アメリカ、シカゴ大学のミハイ・テクセントミハイ教授。日本ではスポーツ医の辻 秀一医師・・・・
2、「人間はなぜ働くのかを考えなさい」
『一生にわたって学習していくという価値の存在こそが働くということの真の意味なんだ。それに気づけない人は、働くことがしんどくなる。どうかこの価値に気づいてほしい』
ジャパネット高田社長
4、「老舗に共通する条件」どうしてこの国には、こんなにも老舗が多いのか。
世界に200年以上続く老舗企業の数は、韓国ゼロ、中国9、インド3に対して、日本はなんと3,000。
その秘密をジャーナリストで拓殖大学教授の野村誠氏
私は四年前、『千年、働いてきました』という本を出したが、それにあたって百年以上続く老舗を全国に二十三軒訪ねた。
その中で、私自身が感じた老舗企業に共通する三つの要素がある。
第一は「適応力」。
例えば携帯電話の折り曲げ部分には、京都で三百年以上続く福田金属箔粉工業という老舗の技術が応用されている。
同社の箔や粉は、元々屏風や蒔絵に用いられてきたが、いまでは携帯電話の分野にも進出し、時代の変化に即応しながら生き残っているのである。
第二は「許容力」。
これは時代の変化を受け入れるだけでなく、他者、すなわち他人の血を受け入れる力があることを差す。
よその国にはない日本の老舗の大きな特徴として、養子に店を継がせていることが挙げられる。
日本には「三代目の養子」という言葉があるが、これは三代目あたりで養子を入れた店ほど長続きすることを意味している。
中国と比較してみよう。
あちらの国では、長男がいれば必ず長男に店や会社を継がせる。
もし病弱であったりすれば、今度は次男へというふうに、とにかく血族の男子へと継がせていく。
片 や日本は、跡継ぎが病弱だったり、商売に不向きであったなら、娘に養子をもらう。
あるいは番頭を一時的に当主に据えたり、店の中で有望な奉公人を養子にして継がせる。
江戸期には、有能な若者が繁盛店に養子として入るのが出世コースとされたほどだった。
また、華人には「有能な他人より、無能な血族を信ぜよ」という格言がある一方で、商都・大阪には「息子は選べないが、婿は選べる」という言い習わしがある。
要するに、跡取り息子が「アホぼん」で店を潰されるくらいなら、赤の他人でも優秀な娘婿に継がせたほうがよっぽどよい。
そんなプラグマティズム(実用主義)が日本の老舗には存在するのである。
要は血族を取るか、継続を取るかの違いだが、血族を取ると、たいがい三代目あたりで店が続かなくなってしまう。
その底流にあるのは、国家の歴史や文化的土壌からくる「他者不信」というものだろう。
相次ぐ革命を経験し、友人同士でも密告や騙し合いを行う国にあっては、それもやむを得ないことなのかもしれない。
そうした国々と比べると、遥かに根強い信頼感というものが、日本の社会の底流には息づいている。
我々自身はさほどそれを実感していないかもしれないが、私はその貴重さに多くの人が気づいてほしいと思う。
5、散っていった友の詩を語り続けて60年
特攻隊の生き残りとして、散っていった仲間たちの思いを語り続けておられる知覧特攻平和会館顧問・板津忠正さんのインタビュー記事を抜粋して紹介します。
(記者)知覧の特攻平和会館は、来場者が引きも切らないそうですね。
板津
いま知覧には、年間70万人もの方が訪れています。人口わずか1万4,000人のあの町にですよ。景気の低迷でよその観光地はちょっと下火になっていますが、知覧は逆に伸びる一方なんです。
(記者)館内にある特攻隊員の皆さんの写真には、感極まるものがありますね。
板津
あの笑顔を見て、皆さん感動されるんです。
これから死出の旅路に立つ者が、なぜあそこまで晴れやかな笑顔を見せられるのか。
以前、あれは強制的に笑わされた顔だ、という作家もいましたが、強制されてあんな笑顔になるかってことね。
いよいよ出撃の直前ともなれば、各々の思いを、家族への手紙や辞世の句として残しました。
私はそれらをほとんど諳(そら)んじているんですよ。
あれこれ説明するよりも、そうした絶筆を直接ご紹介したほうが、出撃前の気持ちはよくわかると思います。
これは宮城県の相原ノブオ少尉、18歳が、継母である母親に宛てて書いた絶筆です。
「母上、お元気ですか。長い間本当にありがとうございました。我六歳のときより、育ててくだされた母。
継母とはいえ、この種の女にあるがごとき不祥事は一度たりとてなく、慈しみ育ててくだされし母。ありがたい母、尊い母。俺は幸福だった。
その母上に対して、ついに最後まで『お母さん』と呼ばざりし俺。幾度か呼ばんとしたが、なんと意志薄弱な俺だったろう。母上お許しください。さぞさびしかったでしょう。
いまこそ大声で呼ばせていただきます。お母さん、お母さん、お母さんと」
この遺書を、継母であるお母さんがどんな気持ちで読まれたか、察するに余りあると思うんですよね。
それから、愛知県の久野正信大尉は、全文カタカナで遺書を書かれました。
5歳と2歳の2人のお子さんがいらして、きっと一日も早く父親の心情を伝えたいと思われて、小学校低学年で習うカタカナで書かれたのでしょう。
「正憲、紀代子へ。父ハスガタコソミエザルモ、イツデモオマエタチヲミテイル。
ヨクオカアサンノイヒツケヲマモッテ、オカアサンニシンパイヲカケナイヨウニシナサイ。
ソシテオオキクナッタレバ、ヂブンノスキナミチニススミ、リッパナニッポンヂンニナルコトデス。
ヒトノオトウサンヲウラヤンデハイケマセンヨ。『マサノリ』『キヨコ』ノオトウサンハ、
カミサマニナッテフタリヲヂットミテヰマス。
フタリナカヨクベンキョウシテ、オカアサンノシゴトヲテツダイナサイ。
オトウサンハ『マサノリ』『キヨコ』ノ オウマニハナレマセンデシタケレドモ フタリナカヨクシナサイヨ」
(記者)いまはどのようなお気持ちで語り部としてのご活動を?
板津
旅立った特攻隊員が、ただ気がかりだったのは、自分たちが死んだ後で日本がどうなっていくのか、ということでした。
こんな辞世の句があります。
「国のため 捨てる命は 惜しからで ただ思わるる 国の行く末」
「風に散る 花の我が身は いとわねど 心にかかる 日の本の末」
私は、神社などへお参りする時は、日本の現状をずっと報告してきとるんだね。ところが最近は、報告するのが心苦しい時があります。
子が親を殺したり、親が子を殺したり、非常に説明しづらいことばかりですからね。
特攻隊員たちは皆、平和を望んでやまなかった。生き残った私は、彼らの語り部としてやっていく以外にその方法を思い浮かばなかったから、一途にこれをやり続けたわけです。
日本中の人が知覧へ行くようになれば、校内暴力も家庭内暴力も絶対になくなると私は思っています。ですから、少しでも多くの人に知覧に行っていただきたいというのが、私の切なる願いです。
6、人生の尊さ
これまで6000人もの自死志願者の相談に応じ、立ち直りに尽力してきた篠原鋭一氏
人生80年とすると、睡眠で27年、食事で10年、トイレで5年分時間を消費するそうです。これらを差し引くとたった38年。
人生はそう長くもないことに気づくと、もっと一所懸命に生きなければ、と皆の意識が変わります。
また人生において、この人に出会えてよかったと思える大切な人の数は、一生のうち一番多い人でも200人だそうです。
自分は何人かと数えてみると、意外に少ない。
これまでの人に対する接し方を振り返り、豊かな人間関係を築いていくよう心がけねばなりません。
定年を迎えたら後は余生という考えは間違いです。
人生は、生まれた途端に日付の書かれていない定期券を手にするようなもの。
最期の時をいつ迎えてもいいように、日々悔いなく生き抜き抜いて、初めて現役を終える。
人生に余生や老後というものはないのです。しかし、決して急ぐ必要はありません。人生は各駅停車の旅なのです。
特急電車に乗ったら見えない途中の風景も、各駅停車に乗ればじっくりと楽しめます。
時に歩みを止めてもいい。心身を総動員してその風景を感じ取る。
コツコツ積み上げていくうちに力が付いて人生が分かってくるのです。
7、感性を磨く実践的方法
名だたる高級ホテルを抜いて顧客満足度指数日本一に輝いた、スーパーホテルの山本会長
スーパーホテルも、35店舗を超えたくらいの頃は経営が伸び悩んでいました。
稼働率は上がらないし、数多くのクレームも寄せられる。スタッフの心も次第に荒れておりましてね。どうしたらいいか考え続ける中で生まれたのが「自立型感動人間」という言葉でした。
これは、
「ここまで自分たちのことを考えてくれているのか」と感動を与えられるだけのサービスを自分で考え抜き、行動していけるスタッフのことです。
いま私どもが仕事の半分近くを割いて取り組んでいるのがそういう人間力が磨かれた人づくりの活動なんです。
私はスタッフによく、「お客様の100のタイプを考えてみなさい」と投げかけるんです。
だけど、それはよほど感性と人間性が磨かれていなくては思い浮かばない。考えてもせいぜい30が限度でしょう。
しかし、実際の現場の中で考え続けることで、「このお客様は失意の中にいらっしゃるな」
「とても嬉しい出来事があったのだな」ということが次第に分かってくる。
感性とは、ある意味で想像力といっていいかもしれませんね。お客様の喜びや痛みが分かれば、それにどうお応えしたらよいかという知恵が浮かぶ。感性が磨かれれば、そこに感動が生まれます。
そしてそれがスタッフの誇りややる気、自主的な行動に結び付いていくわけです。
8、仕事を面白くするには
ユニクロの柳井正氏。地方の零細商店を世界的な優良企業に育て上げた人物は、どんな働き方を理想としているのか。ビジネスばかりでなく、物事への取り組み姿勢として、示唆に富んだお話をされています。
僕が考える一番いい会社とは、末端の社員でも自分がトップの経営者だと思っている会社。
自分が全部のことを決められるし、この会社を支えている、コントロールしていると思える社員がたくさんいる会社です。
それが大会社になってくると、会社に使われるようになるんですね。自分が下っ端だと思った瞬間にダメになる。
我々の会社でいえば、部長級や課長級がそうですが、自分の立ち位置に捉われ過ぎ。それぞれの人が自分の立ち位置で物事を考えるから、ごく限られた範囲内でしか物事が見えない。そして全部見えていなくて失敗している。ですから一度、自分もトップの経営者だと思って、上からいまの仕事を見直したら、すごく良くなるように思います。
結局、サラリーマン意識じゃダメなんですよ。
自分は会社という場所に、「自営業」をするために来ている。自分は給料を貰っている立場だとかじゃなく、自分が会社を食わせてる、と思うべきです。仕事がおもしろいと思うためには、自分がそこに本当に懸けないと、絶対にそうは思えない。中途半端な気持ちでやっていたら、おもしろくも何ともないですよね。
9、『安岡正篤 心に残る言葉』(藤尾秀昭・著)
安岡師の著作を編集・発行してきた著者の講演録。語り口調で読みやすく、初めて安岡師の教えに触れる方にもおススメです。
◎内容抜粋
「安岡先生は『物知りになれ』なんて一言もいっていません。それどころか、物知りになると人間は危険だ、といっています。物知りになって人間が悪くなる人がたくさんいる。そんな学問はしてはいけない、といっているのです。では、どういう学問をすればいいのでしょうか?活学をしなさい、というんですね。活学をして人物になりなさい、と。だから、安岡教学の本質は人物学ですね。人物学というのは人物になるための教えです」
* * *
◎安岡師名言一例
「日常の出来事に一喜一憂せず、現在の仕事を自分の生涯の仕事として打ち込むこと、そして、それを信念にまで高めなければ自己の確立はあり得ない」
「何にしびれるかによって、その人は決まる。人間は本物にしびれなければならない」
「賢は賢なりに、愚は愚なりに一つのことを何十年と継続していけば、必ずものになるものだ」
* * *
古典や歴史、人物の研究などをベースに、あらゆる人生経験から人物学を極めた安岡師の教えは、現代にも通じる生き方を明らかにしています。
10、『運』が良かった!」
「『運』が良かった!」と言う話で松下幸之助翁は次のように言っています。
「人間はともすれば、うまくいけば自分の腕でやったと思いがちである。それが、驕りに通ずる。だから、事がうまくいったときには、運が良かったと考え、うまくいかなかったときには、運がないと思わず、腕がなかったと考えたい。そうすれば、自分の力を上げざるを得ない」
松下幸之助翁は、新入社員採用の面接で、必ず、「あなたは、今までの人生で、『運』が良かったですか?」と、聴いたそうです。
そして、即座に、「はい、『運』が良かったです!」と応えた人を優先的に採用したとのことでした。
成長している企業の社長に、成功の理由をお聴きしたところ、一番多かった応えが、「『運』が良かった!」。
一方、倒産してしまった元社長に、倒産した理由を聴いたところ、一番多かった応えが、「『運』が悪かった!」だったそうです。これは、松下幸之助翁の考え方からすると、成功した企業も、倒産した企業も、なるべくしてなったんだ。ということがわかります。
やはり、人は常に、「謙虚さ」(成功したら『運』が良かったと思う)と「向上心」(うまくいかなかったら腕がなかったと思う)を併せ持つことが成長していく過程において、極めて大切だということだと思います。
「言うは易く、行なうは難(かた)し」で、なかなかこの様に考えることは難しいですが、
是非、我々も努めて、この「謙虚さ」と「向上心」を持ち併せながら仕事をしていきたいですね。
たぶん、仕事も人生も、苦労はしますが、楽しくなると思います。
11、「リーダーの条件」 塩野七生(作家)特集「将の条件」より
息子の高校の教科書に リーダーに必要な資質として、
「知力」
「説得力」
「肉体的耐久力」
「持続する意志」
「自己制御」
と載っていましたが、まさにカエサルはこの五つの資質を備えていた人物でした。
おもしろいのが、日本人はよくリーダーの条件というと決断力や実行力を挙げますが、そういうのは一つも入っていない。
この五つの条件を備えていたら、そんなことは当たり前なんだと思いました。
決断とは、いろいろと考えを巡らせて決めることだから知力がなければできないことですし、決断しても実行しなければお話にならない。
ここで言う知力とは、インテリジェンスなんですよね。
だから本の中でも「知識」とはとても訳せなかった。確かハードカバーでは「知性」と訳しているのではないかと思いますが、文庫では「知力」と訳し直したりしました。
つまり、もろもろのことに考えを巡らせる能力ですよね。だから知識ではない。
私が一番好きなカエサルの言葉に「多くの人は見たいと欲するものしか見ない」というのがあります。
もう、私はこの一言だけでもカエサルに惚れてしまいますね(笑)。
リーダーと一兵卒では見るものが違うかと言ったら、本当は同じです。だけど一兵卒はその重要性に気づかない。
いや、気づきたくないわけね。例えば敵が来るなんて思いたくないから敵を見ないんです。そこが、リーダーとリーダーでない人の間に存在する、厳とした差ではないかと思います。カエサルは見たくない現実も見ることができた人でした。
あの時代のローマに何が必要で、何が不必要であるかを明快に見定めた人物だったと思います。
12、「信じる通りになるのが人生である」
永守重信氏(日本電産社長)「切に思うことは必ずとぐるなり」より、特集(事業を発展することができた理由を聞かれて)
信じる通りになるのが人生であるということですね。僕はこの言葉を自分で色紙に書いて、目のつくところに置いています。自分でこうなりたいと思っていることもなれないのに、思わないことが実現するわけは絶対にないですから。だから信じる通りになるのが人生ということですな。しかし世の中の人はみんな信じない。頭のいい人ほど先が見えるから信じませんね。できるわけがないと思ってしまう。だからむしろ鈍才のほうが教育しやすいですね。
創業間もないころの日本電産は、私の家の一室で図面を引き、桂川の堤のそばにあった30坪ほどの染め物工場の1階を借りて、旋盤とボール盤、プレス機を1台ずつ入れて仕事を始めたんです。どこへ行っても仕事はもらえず、やっと受注できた仕事といえば過酷な注文がつくためにほかのメーカーのどこもやらないような仕事ばかり。技術者みんなに言うと絶対無理だと言う。そういうときはみんなを立たせて、いまから出来る出来ると100回言おうというわけです。
「出来ます。出米ます。出来ます……」。
「どうや」と。「いや出来ません」。
今度は1,000回言う。そうすると不思議なことにだんだん出来る気分になってくるんです。そういう気分になったところで一気に始める。すると、客先の要求する性能に及ばないまでもかなりレベルの高い製品が仕上がる。こうやって日本電産の技術力が蓄積されていったんです。このときに「とても無理だ」「不可能だ」とあきらめていたら、日本電産はとっくに倒産していたと思います。
社員によく言うんです。「物事を実現するか否かは、まずそれをやろうとした人が“出来る”と信じることから始まる。
自ら“出来る”と信じたときにその仕事の半分は完了している」とね。
13、「どうせ」を使うなかれ
小学校教諭の若いSさんは、授業参観のあとで、保護者の一人から手紙を受取った。そこには丁寧な文体で、授業がとても活気があり、生徒たちの態度が良かったと褒めてある。喜んだSさんだが、末尾に加えられていた要望にギクリとした。
「一つだけお願いがあります。先生は授業中、『どうせ』という言葉を二、三回使っておられました。わが家ではこの言葉を子供たちへの禁句としております。どうかその点、今後はご配慮いただきたく存じます」
Sさんはすぐに文章が呑み込めず、考え込んだ。ーーーたしかに「どうせ」という言葉を使ったかも知れない。「どうせ声に出すのだから、元氣よくね」とか。でも、それが何故いけないのだろう?
図書室に行き、一番大きな国語辞典を引いてみた。すると「どうせ」には、①「いずれにしても」「どのようにしても」という意味のほかに、次のような意味もあると書いてあった。
②「好ましくない行為、状態、判断などが、こちらの希望や意思に反して成立ってしまうことへの、あきらめ、または不貞腐れた氣持ちを表わす」(「日本国語大辞典」)
この消極的・否定的な意味の「どうせ」を、授業中に使った覚えはない。しかし、①の「どうせ」をよく口にしていると、気付かないうちに②の「どうせ」も使ってしまうかも知れない。そういえば「どうせ自分はダメだろう」とか「どうせ生徒に話してもわからないな」とか思うことがよくある・・・・・・。
そう氣附いたSさんは、手紙の主に感謝の礼状を書いた。そして「どうせ」の言葉を使わないようにし、頭の中からも消すように努めたところ、心の落ち着きや積極性が増していくのを感じるようになったという。
未来は可能性に満ちている
言葉の持つ力については、これまでも本欄で指摘してきた。「ありがとう」とか「喜んで」など、もっと多用したい言葉がある反面、極力使わないようにしたい言葉もある。「どうせ」は後者の典型といえよう。
とくに②の「どうせ」が好ましくないのは、それが未来を否定してしまう言葉だからだ。未来は可能性に満ちている。今がこうであっても、未来はどうなるかわからない。ところが「どうせ自分なんか・・・・・・」と言ったり思うことで、自分の可能性は封じられてしまう。
相手に対しても同様だ。「どうせ〇〇なんか……」と言うのは、単なる悪口よりもずっと質(たち)が悪い。相手の可能性を殺してしまう言葉だからである。
かって講演会でそのようなことを話したら、ある青年が便りを寄越した。「『どうせ』と言い続けてきた人生に終止符を打てました。生まれ変わります」と書いてあり、嬉しかった。
英文学者で評論家の外山滋比古(とやましげひこ)氏(お茶の水女子大学名誉教授)の近著『「マイナス」のプラス』(講談社)には、次の一句を引いて、安易に「どうせ」と判断する思慮の浅さが指摘されている。
浜までは海女も蓑(みの)着る時雨(しぐれ)かな(瓢水ひょうすい)
海女は海に入れば濡れる。(どうせ濡れるのだから雨が降っても蓑を着る必要などないではないか)と思うのが普通だろう。だが、時雨が降ってくれば、我が身をかばって蓑を着るのがたしなみというもので、床(ゆか)しく、美しい。人はいつか死ぬ。どうせ死ぬのだから、よく生きる努力など空しいと考えるのは浅はかである。
“どうせ”がいけないのは、年寄りだけではない。若い人でも同じことである。
ロクに考えもしないで、先々のことをわかったような氣になって、すべきことを怠る心は、年齢を問わず人間につきまとう。
“どうせ”は、すべきことをしないですまそうとして、自分を欺くせりふである。
傾聴すべき指摘ではないか。思いは言葉になる。と同時に、言葉が思いをつくり、行動を引き出す。言葉が持つ力の大きさを、改めて自覚したい。
「浜まで、身を大切にする人は海に入ってからもいい仕事をする」とも外山氏は述べておられる。死ぬまで言葉を大切にする人は、死んでからも、いい人生を残し伝えられるにちがいない。
丸山敏秋(まるやまとしあき)
1953年、東京都生まれ。
倫理研究所理事長
『実践のヒント』など著書多数。
14、世の中に自分にとってマイナスのことなど何一つない。
怪我を克服し、39歳にしてメジャーデビューを果たした、あの桑田真澄投手が語っている話です。
〇まわりはどうでもいい。大事なのは自分の心が納得すること。
〇何十年という限られた人生の中で燃え尽きたい。
〇失敗することが駄目なんじゃなくて、もう一度起き上がらないことが駄目。(桑田投手自 体は、「ダルマ人生」と言っています)。
〇野球(自分の仕事)を通じて、何かを学ばさせてもらっているという姿勢が大事。
〇野球(自分の仕事)を通じて、どれだけ自分の力・人間力をつけることができるか。と言う意識で毎日を生きている。
〇他と比較しても駄目。自分を活かす方法を見つける。
〇人はそれぞれ、世界で唯一の存在であり、その人なりの人生だから。比較しないこと。
〇今できることを精一杯やり、次に続けることが大事。
〇横這い(伸び悩んでいるとき)の時こそ、努力のとき。いつの日か前に進むために、今、何ができるか考える。
〇辛抱していれば必ずプラスになる。いい時も悪い時も、辛抱すること。必ず良くなる。
桑田真澄投手が息子さんに語った話
“中学3年生の長男が野球をやっているのですが、いつも(息子に)言うのは、「パパはパパ、お前はお前の人生だから、絶対パパと比較しちゃ駄目だよ」って。
「お前は世界で唯一の存在だから。誰とも同じじゃないんだよ。
だから、あいつよりうまいとか、あいつより下手とか、パパが高校一年生の時に甲子園に出たから、俺も出なきゃとか、そんなの全く思うことない。
自分の人生を自分のペースで行くことが大事だから、今できることを精一杯やっておけ」と。
別に偉そうに言うつもりはないんですけど、僕がそうやってきたんで、それを息子に教えたいなって思うんです。
「今が最高じゃなきゃ駄目だって考えるじゃなくて、次に良くなればいいんだから」って。
「死ぬ時に幸せだったなと思えればそれでいいんだから」って言う話しを、まあ、子供にしながら自分自身にも言い聞かせているわけですけど。”
15、 「ヨコの恩・下の恩を知る」 松原泰道(「南無の会」会長)
古代インドの地方語のパーリ語に「カタンニュー」という言葉があります。
「何がなされたかを知る」という意味です。
また、中村元先生は『仏教語大辞典』で、「恩とは、何がなされ、今日の状態の原因は何であるかを、心に深く考えることである」と解説されました。私は仏教でいう恩の基は、このカタンニューではないかと思っています。
恩という字は「因」と「心」から成り立っています。原因を知る心、つまりカタンニューです。
釈尊は、このようなたとえ話をされました。
ある金持ちが大工さんに「二階建ての家を建ててくれ」と命じた。
大工さんが一階を作り始めると、その金持ちは、「オレは一階はいらん、二階だけでいいのだ」と怒った……と。
そして釈尊は「この金持ちのことをどう思うか」と弟子たちに問いかけられたのです。
私は、それこそカタンニューではないかと思います。一階があってこそ二階があるのでしょう。そうでなければまぼろしの空中楼閣です。
私は朝日カルチャーセンターの講師をしているので、毎週一回東京の新宿住友ビルの48階にある教室に行っていますが、ある時ふとカタンニューに思いが至りました。すばらしい眺望のこの48階も、その下に47階があるからこそ実在する。そうであれば、47階以下の存在を知るということこそカタンニューということであり、恩ではないか……と。
仏教でいう恩とは、自分よりも上の人に対するだけではなく、「自分になされたのが何であるか」という、むしろ自分より下の者のことを思うということなのです。
カタンニューとは、儒教的な「上から下への」恩だけではなく、横の恩、下の恩を知るということでもあります。多くの人たちに自分が支えられていることを知る――それが恩を知るということでもあるのです。
* *
そのことを、少し角度を変えて述べてみましょう。
有島武郎の『惜しみなく愛は奪う』の一節に
「子を持って知る子の恩」 というくだりがあります。
よくいわれる「子を持って知る親の恩」ではなくて、まさに「子の恩」なのです。自分の子供の恩を知る人にして、初めて親の恩がわかるということではないでしょうか。
実際に、サラリーマンに何かあった時、自分を支えてくれるのは上司ではなく、部下である場合も多いのではありませんか?部下の恩がわかるのがよい上司、弟子の恩がわかるのが、すぐれた師ということになるでしょう。
16、「命とは君たちが持っている時間である」
日野原重明(聖路加国際病院名誉院長)「心願に生きる」より
僕はいま人生において最も大切だと思うことを、次の世代の人に伝えていく活動を続けているんです。僕の話を聞いた若い人たちが何かを感じ取ってくれて、僕たちの頭を乗り越えて前進してくれたらいいなと。その一つとして僕は二年前から二週間に一回は小学校に出向いて、十歳の子どもを相手に四十五分間の授業をやっています。
最初に校歌を歌ってもらいます。前奏が始まると子どもたちの間に入って、僕がタクトを振るの。すると子どもたちは外から来た年配の先生が僕らの歌を指揮してくれたというので、心が一体になるんですね。
僕が一貫してテーマとしているのは命の尊さです。難しい問題だからなかなか分からないけれどもね。でも「自分が生きていると思っている人は手を挙げてごらん」と言ったら、全員が挙げるんです。
「では命はどこにあるの」って質問すると、心臓に手を当てて「ここにあります」と答える子がいます。
僕は聴診器を渡して隣同士で心臓の音を聞いてもらって、このように話を続けるんです。「心臓は確かに大切な臓器だけれども、これは頭や手足に血液を送るポンプであり、命ではない。命とは感じるもので、目には見えないんだ。 君たちね。目には見えないけれども大切なものを考えてごらん。空気見えるの? 酸素は? 風が見えるの? でもその空気があるから僕たちは生きている。このように本当に大切なものは目には見えないんだよ」と。
それから僕が言うのは
「命はなぜ目に見えないか。それは命とは君たちが持っている時間だからなんだよ。死んでしまったら自分で使える時間もなくなってしまう。どうか一度しかない自分の時間、命をどのように使うかしっかり考えながら生きていってほしい。さらに言えば、その命を今度は自分以外の何かのために使うことを学んでほしい」ということです。
僕の授業を聞いた小学生からある時、手紙が届きましてね。
そこには「寿命という大きな空間の中に、自分の瞬間瞬間をどう入れるかが 私たちの仕事ですね」
17、「息子の心にも響いた物語」
高塚伸志(プルデンシャル生命保険エグゼクティブ・ライフプランナー)「致知随想」
「この本の最後にある“縁を生かす”っていう話は、和田先生とお父さんのことだよね」
目下、反抗期中で高校二年になる長男がポツリと呟いた。
碌に言葉を交わすこともない息子にも、これだけは読ませたいと思って渡しておいた
『心に響く小さな5つの物語』
彼はちゃんと読み、こんなことを言ってくれたのである。なんでそう思ったのと尋ねた私に、息子は「だってお父さん、いつも言ってるじゃん。和田先生、和田先生って」と答えた。
私はただただ嬉しくて、心の中でガッツポーズを決めた。まだ気を抜けない状態ではあるが、以来二人で話す機会も増え、いままでと違った発言や行動をするようになってくれたと感じている。何より、息子が私のことをそんなふうに理解してくれていたことが嬉しかった。
冒頭の「縁を生かす」とは、小学校時代の先生とのたった一つの縁を生かし、人生をひらいていった少年の実話である。
この物語を読んだ時、こみ上げてくる熱いものを抑えることができなかった。その少年の姿は息子の言うとおり、自分自身の歩みそのものだったからである。
私が人生の師と敬う経営コンサルタントの和田一廣先生とのご縁を頂戴したのは十一年前のことである。いや、頂戴したというより、押し掛けたと言ったほうが適切かもしれない。
八年半勤めた製薬会社から生命保険会社へと転職し、五年がたった三十五歳の頃だった。
当時、私は札幌でトップクラスの営業成績を挙げていたものの、自分自身に対して何か満足できず、モヤモヤした気持ちを抱えていた。そんな時、知人から和田先生主宰のセミナーに来てみないかと誘いを受け、会に参加した私は、全身に電流が走るほどの衝撃を受けたのである。
あぁ、自分はこの先生に縁がある、きょうは人生が変わる日だと、何の根拠もなかったが、そう直感した。
先生と話がしたい。どうしてもご縁を頂戴したい。そんな思いが溢れ、私は会が終わってからも帰らなかった。そして勇気を振り絞り、先生と面識のある知人に「和田先生に挨拶をさせてください。この後食事へ行かれるなら自分も連れて行ってください」と懇願した。恥も外聞もない。藁をも掴む思いだった。
その後、知人から私の頼みを聞いた先生は「いいんじゃないか」と温かく受け入れてくださり、私は雲の上の人と食事へ行く機会をいただいたのである。まさに天にも昇る思いだった。だがその席で、私は緊張のあまり一言も発することができず、先生との一大ご縁をつくる計画はぶち壊しになってしまった。
奇跡が起きたのは、その翌日のことである。平成十一年六月二十九日の午後五時三十三分。突然鳴った携帯電話から「和田だけど」という声がする。私はてっきり友人の和田だと思い、「久しぶりだな」と答えた。
「いや、和田だけど」
「何言ってんだ、おまえ。和田だろ?」
「…いや、昨日一緒だった和田だよ」
真相を知った瞬間、顔面蒼白になった私に、先生は優しくこんな言葉を掛けてくださった。
「昨日は喋れなくて悪かったなぁと思いながら、君の名刺を見ていたら、いま泊まっているホテルの目の前に君の会社がある。お茶でもどうかと思って電話したんだ」
私は一も二もなく先生の元へ飛んで行き、そこでいろいろな話を聞かせていただいた。そしてあるお願いをしてみた。
「先生は昨日、学ぶことの大切さを話されましたが、どこで何を学んでよいのか分かりません。先生が主宰されている勉強会に参加させていただけませんか」
先生は
「東京までは遠いし、お金もかかるから無理するなよ」と言ってくださったが、私の決意は固かった。入会の条件を尋ねたところ、先生は笑みを浮かべてこう言われた。
「一つ目は元気なこと。二つ目は前向きなこと。三つ目は人に迷惑をかけないこと」
よく考えると非常に厳しい条件だが、その時はいささか肩透かしを食らったようになり「いま自分はできているか分かりませんが、私もそれを目指したいです」と答え、入会を許された。その後、毎月の勉強会に参加する中で、先生から教わったことの一つが
「気づいたら変える」である。
ある時、受講生がした発言に対し、先生が一喝されたことがあった。
「君たちなっ! こうやって勉強に来てるのもいい。だけどどんなに勉強したって、それを一つでも行動に移さなければ何の意味もない。いいか、気づいたら変えろ」
その日からこの言葉は自分の座右の銘となった。先生の会に参加したら、帰りの機内で振り返りをして、降りた瞬間必ず変える。そう決めて毎月一個ずつ、十一年間にわたって自分を変え続けてきたことが、今日の私をつくってきてくれたのだと思う。
その後も様々なことを学ばせていただいたが、あちこちへお供をする中、先生がたった一本の電話で誰かに縁をつくって差し上げている場面を何度となく目にした。
運も縁も偶然起こるものではなく、誰かがその人のためを思い、運んできてくれるものなのだと気がついたのは、そんな先生の姿を通してである。
『心に響く小さな5つの物語』に出合えたのも、そもそものきっかけは和田先生だった。
そしてこの本がまた、息子との関係を取り戻す大きなきっかけを与えてくれたことに深い感謝の念を抱いている。
私も先生のように、出会った人に何かしらの縁やきっかけをつくって差し上げられる人間になりたい。それが私にできる、たった一つの恩返しではないかと思う。
18、先月の言葉
①
日本を
楽しい国にしよう
明るい国にしよう
国は小さいけれど
住みよい国にしよう
日本に生まれてきてよかったと
言えるような
国造りをしよう
これが21世紀の日本への
わたしの願いだ
②
新しい年を迎えるには、新しい心構えがなくてはならぬ。
決してただ漫然と迎えてはならぬ。
そしてその心構えには年相応のものがなくてはならぬ。
五十代には五十代の心構え、七十代には七十代の心構えが大切である。
還暦になったんだから、古稀になったんだからという妥協は、自己を深淵に落ち込ませるだけである
③
美しく生きるとは
一筋に生きることだ
一筋に生きるとは
自分を生かす1つのことに
一心不乱になることだ
一心不乱とは
神意にただ従うことだ
フラフラするな
グラグラするな
ウコサベンするな
④
いのちいっぱい
生きるのだ
念じ念じて
生きるのだ
一度しかない人生を
何か世のため人のため
自分にできることをして
この身を捧げ
⑤
真の人間になろうとするためには
着ることより
脱ぐことの方が大事だ
知ることより
忘れることの方が大事だ
取得することより
捨離することの方が大事だ
⑥
漫然と生きているのが
一番いけない
人間何か希望を持たねばならぬ
希望は小さくてもよい
自分独自のものであれば
必ずいつか
それが光ってくる
そして
その人を助けるのだ
⑦
体の中に
光を持とう
どんなことが起こっても
どんな苦しみのなかにあっても
光を消さないでゆこう
⑧
よい本を読め
よい本によって己れを作れ
心に美しい火を燃やし
人生は尊かったと
叫ばしめよ
①~⑧ 坂村真民先生の名言(仏教詩人)
真先に片付けるべき仕事に、思い切って着手する
森信三(教育者)
真理は平凡の中にある
上甲晃(志ネットワーク代表)
理念のない会社は伸びない
佐久間昇二(WOWOW相談役)
いつも断崖絶壁。
だから全身全霊で指揮台に立つ以外にない
小林研一郎(指揮者)
負けてたまるかと静かに自分に言いなさい
松平康隆(全日本バレーボール協会名誉会長)
行動して熱くなる中で
壁を越える強いエネルギーが湧いてくる
大東隆行(王将フードサービス社長)
諦めの悪い人間が最終的には結果を出す
伊藤俊彦(ジェイラップ社長)
逆境を自分で背負うことで次に向かうエネルギーを作り出す
涌井徹(農業者)
能力なんか関係ない。やるか、やらないか。それだけ
辻口博啓(パティシエ)
感謝にまさる能力なし
長谷川裕一(お仏壇のはせがわ会長)
名が残るような立派な仕事は、いつも苦しい状況の中から生まれる
茂木友三郎(キッコーマン会長CEO)
勇気を失うな 唇に歌を持て 心に太陽を持て
ツェーザル・フライシュレン(詩人)
運や縁は求める心の強さが引き寄せる
板橋興宗(御誕生寺住職)
3つのJ──自信、自律、自立
椎名武雄(日本アイ・ビー・エム相談役)
継続は力であって、一夜漬けでは力にならない
數土文夫(JFEホールディングス社長)
本当の学問とは、生きる意味を知ること
占部賢志(福岡県立太宰府高等学校教諭)
志士とは、志を持って天下国家のために身を挺す人間
瀬戸謙介(瀬戸塾師範)
息を引き取る時にもっとも完熟した風格を備える
伊與田覺(論語普及会学監)