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有賀泰治ブログ

新年度の経営方針共有勉強会

新年にあたり、今年の誓い

《3倍働く3倍学ぶ3倍動く》

今年も変わらず、動きまくります。

2011年1月経営方針共有勉強会

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・有賀 泰治
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2011年1月1日

1、「盛衰の原理」

2年後(H25年)に62回目を数える伊勢神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)。

伊勢神宮では、社殿のすべてを新たに造り替える式年遷宮が20年に1回行われています。

1300年にもわたり続いてきたこの行事は、我が国の先人が、人知を超えたものを畏敬、尊崇する心を持ち続けてきたことの表れであり、絶えず後から来る者のことを考え、遠き慮りの心を持ち続けたことが、我が国の盛衰に深く関わってきたことを銘記しなければなりません。

これを踏まえて、仏教詩人・坂村真民氏の心に響く詩を紹介。

あとから来る者のために
田畑を耕し 種を用意しておくのだ
山を 川を 海を きれいにしておくのだ
ああ あとから来る者のために
苦労をし 我慢をし みなそれぞれの力を傾けるのだ
あとからあとから続いてくる あの可愛い者たちのために
みなそれぞれ自分にできる なにかをしてゆくのだ

2、21世紀に入り、世界はいよいよ大きな転換期を迎えつつあります。

この3年が日本の正念場になると説く山田宏氏(日本創新党党首)のお話をご紹介します。

『これから3年くらいの間に日本には本当に国家としての存続が問われる事態が頻発すると思うんです。
いまはまさに黒船がどんどん来港してくる幕末状態です。
尖閣問題、北方領土、それからTPP、全部平成の黒船です。
日本がこれまでの対応を変えざるをえなくなるような大きな流れが集まって来ています。
その中で国民のマグマがたまってきて、もういまの政治家では駄目なんじゃないか、という事態に間もなく直面すると思います。
私は、この3年が大きな山になると思います。
特に2011年です。
なぜかというと、翌2012年は中国の国家主席が替わり、台湾で総統選挙があり、アメリカとロシアで大統領選挙があり、ひょっとすると北朝鮮もその時に代替わりします。
こういう時は、それぞれの国がいつも以上に国益に走りますから、そのしわ寄せが弱いところに全部来るんです。
日本はその対象になるわけですね。
ですから2011年、2012年と、国家としての日本のあり方がますます問われてきます。

そして2013年は伊勢神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)の年です。つまり国家を新たに建て直す年です。
この式年遷宮の年に向かって国家を再建していくべきだと私は思っているんです。』

3、日本最古の兵書『闘戦経』(とうせんきょう)
1000年前の平安期に書かれたこの兵書で目標を達成する法を、国鉄改革の修羅場に身を投じ、民営化に尽力された窪田哲夫氏よりの紹介

「決して諦めない」

ということでいえば、『闘戦経』42章の次の言葉が思い出されます。

「龍が大虚へ騰(あが)るものは勢いなり。鯉(こい)が龍門を登るものは力なり」

龍が大空に騰るには好機を狙い、風雲という他力に乗ずるが、鯉が激流に逆らって龍門の瀧を登るのは自力による不断の努力である。

これを私なりに

「大滝に 鯉が登るは 不断の力!」

と表現してみました。

鯉は尾を振り続けない限り、滝には登れません。しかし、必死で努力していれば、いつか滝を登り切る日が来ます。

滝を登り切った鯉は、今度は龍に姿を変えて雲に乗り、人生や仕事を発展させることができるのです。

また44章には、

「離弦の勢い衆を討つべし」

とあります。

弓からまさに矢が放たれようとしている時の勢い、これこそ少数の兵で多数の兵を討つ最善の条件である、という意味です。

これも私なりの言葉で、

「衆討つは、発矢の勢い、気力なり!」

と言い換えてみました。

事を成そうと思ったら、理論や理屈ではなく、気力、気勢、勢いがより重要であることは、古今東西、世の真理だと思います。

4、フランクリンの「13の徳目」
貧しい印刷工から身を起こしたベンジャミン・フランクリンは、事業家として成功した他、科学者、政治家など幅広く活躍。後に「独立宣言」起草にも関わり「アメリカ建国の父」の1人として称えられます。

超人的な活躍を支えた心の習慣とは……。

1.節制
頭が鈍るほど食べないこと。酔って浮かれだすほど飲まないこと

2.沈黙
他人または自分自身の利益にならないことは喋らないこと。つまらぬ話は避けること

3.規律
自分の持ちものはすべて置く場所を決めておくこと。自分の仕事はそれぞれ時間を決めてやること

4.決断
やるべきことを実行する決心をすること。決心したことは必ず実行すること

5.節約
他人または自分のためにならないことに金を使わないこと。則ち無駄な金は使わないこと

6.勤勉
時間を無駄にしないこと。有益な仕事に常に従事すること。必要のない行為はすべて切り捨てること

7.誠実
策略を用いて人を傷つけないこと。悪意を持たず、公正な判断を下すこと。発言する際も同様

8.正義
他人の利益を損なったり、与えるべきものを与えないで、他人に損害を及ぼさないこと

9.中庸
両極端を避けること。激怒するに値する屈辱をたとえ受けたにせよ、一歩その手前でこらえて激怒は抑えること

……フランクリンは続いて清潔、平静、純潔、謙譲を挙げています。

5、「僕のいないところで僕を褒めてくれた監督」
「野茂のコトバ」 ~育ち、育てる~

監督にはいろいろなタイプの人がいます。中でも、ガーナー(ブルワーズ、タイガース在籍時の監督)は面白かった。
球場には奥さんと2台のハーレーでやってくる。ハーレーも凄いですが、奥さん同伴の監督というのもあまりいないでしょう。そして、ウエートトレーニングが大好きで、しょっちゅう選手用トレーニングルームで鍛えている。腕の筋肉なんて僕よりずーっと太い。
選手に対してはとにかく自由です。試合中、控えの選手がクラブハウスや、(投球練習をする)ブルペンでトランプで遊んでいても、何も言いません。
自分の出番が来たらしっかりやってくれればいいというのが、ガーナーの
考え方なんですね。
そして、選手のことをよく褒める。例えば、僕が好投したある日「ノモの歩いた後をキスして回りたいよ」とメディアの前で話していたそうです。
そこまで褒める監督も珍しいですよね。面と向かっては褒めません。
後日、記事を読んで、そんなことを言っていたのかと知りました。
なぜ、そんなに褒めてくれたのか、ガーナーに直接聴いていないのでよく分かりませんが、ミルウォーキー(ブルワーズ)のときには、それで随分助かりました。

日本国旗を掲げて応援

ミルウォーキーという町は白人ばかりなんですよ。移籍したばかりのころ、レストランで食事をしたら、チップを山盛り請求されました。アメリカは自分の生まれた国じゃないので、ある程度差別されるのは当然と思ってやっていたのですが、この町は差別が結構強いなと感じました。
でも、監督が僕のことをメディアの前で褒めだしてから雰囲気が変わりました。
町全体が歓迎ムードになって、僕がホームのミルウォキーで投げる試合では、観客が日本国旗を掲げて応援してくれるようになったんです。コーチは「こんなことは有り得ない」とびっくりしていました。
ピッチングの成績は大したことはなかったので、やはりガーナーの気配りが大きかったのでしょう。おかげですごく投げやすかった。
ガーナーのことを悪く言う選手は、僕の知る限り誰もいなかった。コーチとの信頼関係もバッチリです。特にヘッドコーチと3塁コーチに対する信頼は厚く、ガーナーがミルウォキーからデトロイト(タイガース)の監督に移ると、彼らも連れていった。
監督とコーチが理解し合えているというのは、監督自身はもちろん、選手としてもやりやすいものです。サッカー日本代表のザッケローニ監督も、気心の知れたイタリア人コーチで周りを固めましたよね。
ガーナーはブルペンキャッチャーもデトロイトに連れていった。僕はそのブルペンキャッチャーと同い年でよく飲みに行っていたので、彼を通じて僕が何を考えているか、ガーナーは細かくつかんでいたはずです。
チーム内のコミュニケーションを円滑にしてくれるそうした裏方さんも、ガーナーは重視していました。
ガーナーがつくったチームはどこか自分の家にいるような感じがしました。そこにいるだけで、余分な力を使わなくてはいけないチームは嫌ですね。選手にストレスを与えないというのは、監督の大切な仕事だと思います。

野茂英雄(のもひでお)
NOMOベースボールクラブ 理事長
1968年生まれ。高校卒業後、新日鉄堺に所属。
88年ソウル五輪で銀メダル獲得。95年米ドジャース入団。
98年以降、メジャーとマイナー、ベネズエラの球団を渡り歩き、
08年引退。

6、運をつかむ法
昨年夏サッカーのW杯で日本を湧かせた日本代表前監督の岡田武史さん。ベスト16への躍進でも実証されたことを語っています。

いつも選手に言うことですが、「運」というものは誰にでも、どこにでも流れていて、それをつかむか、つかみ損ねるかの違いなんだと。

僕はつかみ損ねたくないから、本当にベストを尽くしてきた。

だから今回も睡眠時間は平均4時間くらいで練習に臨むという生活を続けました。

そうして必死になってやっていると、最後は神様がご褒美をくれるんです。

要するに、自分にできる限りの準備は全部しておくことなんです。

それともう1つ、ずっと言い続けてきたのは、

「勝負の神様は細部に宿る」

ということです。

勝ち負けが決まると、マスコミの人はいろんな戦術論を並べ立てるんですが、僕は感覚的に8割くらいは

「小さなこと」

が勝負を分けているように思うんです。

だから僕は、細かいことに物凄くうるさいんですよ。

おまえがあそこでたった1回、

「まぁいいか」
「これぐらいで大丈夫だろう」

と気を抜いたために、運をつかみ損ね、W杯へいけなくなった。そんなふうに運をつかみ損ねたくなかったら、どんな小さいこともキチッとやれと。

今回、選手たちはそれをちゃんとやってくれたんですよ。

そうやって運をつかみ損ねなかったから、あそこまで行けたんだと思うんですよね。

7、どのような姿勢で仕事に向き合ってきたか
ウシオ電機の牛尾会長、50年経営の第一線で活躍、日本の財界をリードしてきた人物が語られています。

スズキの社長の鈴木修さんなんか私より1つ上ですけれども、彼は40年くらいスズキの経営をやっているんですね。

インド政府を相手に渡り合って、見事に市場を開拓したんです。そういうことは彼以外にありえないことです。

会ってみると普通の人ですよ。もちろん迫力はあります。

その迫力は、やっぱり仕事に打ち込んでいるところからこそ生まれるものです。

自分の中に目標とする理想像があって、それに向かって戦っているんです。

20年くらい前にGMとの提携を持ちかけた時は、歯牙にもかけられない存在でしたが、いまや堂々たるものです。インドではスズキの軽自動車は高級車ですよ。

そこまでになったのは、鈴木さんが自分の心の中にある理想的な自動車メーカーというものに向かって、ただ1人、純度を落とさないで挑戦し続けているからです。

私自身、自分の理想に向かって納得のいく経営をしたいということは常に思ってきました。

経営者になったのは33歳の時ですが、会社の繁栄と、従業員の人生が充実する経営がしたいというのが、当初からの理念でした。

最初は公言しませんでしたが、その理想をずっと抱き続けていたんです。

これは経営者ばかりでなく、あらゆる職業の人にいえることだと思います。

人生における自分の職業理想をしっかり持って、それに向かって努力を重ねていくことが大切だと思います。

8、尖閣(せんかく)諸島の領有が脅かされています。
「語り継ぎたい美しい日本人の物語」では、憂国の高校教師・占部賢志氏が、尖閣諸島の日本領有を裏付ける歴史を紹介して大反響です。

実は尖閣諸島にはれっきとした日本人の開拓者、所有者がいました。

明治以来、長い間におよんで古賀辰四郎及び子息の善次、その後は善次の妻がこの島を守ってきたのです。

古賀辰四郎が沖縄に来島したのは明治12年、24歳の時です。爾来、石垣島に古賀商店を開いて海産物を取り扱い、尖閣諸島の開拓をはじめ多くの功績を残し、明治42年には藍綬褒章を下賜されたほどの人物でした。

古賀は、明治28年に政府が尖閣諸島の領有を宣言するや、「官有地拝借御願」を内務大臣に提出。大臣は30年の期間を設けて尖閣諸島のうち魚釣島と久場島の貸与を許可します。

明治33(1900)年に開かれたパリ万国博覧会では、尖閣諸島などで製造した真珠や貝殻類を出品し、見事銅賞を受賞。

明治36年の内国勧業博覧会では、出品の真珠2点を皇太子殿下が御買上げになるという栄誉にも浴しています。

大正7年に古賀辰四郎は63歳で死去しますが、この壮大な事業は長男の善次が継ぎました。

善次は昭和6年に国に払い下げを申請し、翌年、尖閣諸島のうち魚釣島を含む四島が善次の所有となったのです。

中国政府及び台湾の一部勢力が尖閣諸島の領有を言い募るのであれば、善次が遺した次の証言を刮目して見よと言いたい。

「大正8年、中国福建省の漁船が、尖閣列島沖合いで難破しました。

そのとき、たまたま私の船がそれを発見し、難破船と31人の乗組員を助けて石垣島へつれてきて、手厚い保護をしました。

私だけでなく、石垣の人たちも彼等を親切にもてなし、修理をおえた船とともに中国へ帰してやったのです。

翌年ですよ、中国政府から私をはじめ石垣の関係者に感謝状が送られてきましてね。

その宛名は、日本帝国沖縄県八重山群島尖閣列島でしたよ。

いま中国がいっている魚釣台ではなく、ちゃんと尖閣列島になっています。

個人からの手紙ではありません、政府としての感謝状なんです」

ここに紹介された中国政府から贈られた「感謝状」は現在も保存されています。

今を遡ること90年前から、中国は尖閣諸島は日本の領土であると認識していた決定的な証拠にほかなりません。

9、トップセールス語録(元氣のでる話)

1.買い物というのは気分、つまりノリの部分が大きな要素を占めています。それを盛り上げていくのがセールスの仕事です。
打っても響かない(例えば買っても無反応な)人間からは、どんなに良い物であっても、買いたくはありませんから。

2.私は小心者ですから、お客様に嫌われたくありません。何とか好かれようと頑張ります。
その為に、お客様が何を思っているのかを知ろうと努力するのです。
それを知る為には会話しかありません。

3.セールスは仮説検証を繰り返していくものです。
こちらからどのように話しかけたら、お客様からどのような反応があるか。
それに対して、さらに、どう、お答えするか。それを繰り返していくことで、最終的に「買って頂く」という反応を導くのです。会話→工夫、会話→工夫の連続です。

4.売るためには、確かに容姿や服装も大事かも知れませんが、これは何とか繕(つくろ)うことはできます。
しかし、目に力があるかどうかはごまかせません。お客様は、容姿以上にそこが氣になると思うのです。
「目力(めぢから)」の無さは、売りたいという欲求の希薄さ、自信の無さであり、商品への愛着が足りないことでもある。
誰よりも売りたいと強く思う。
それが覇気(はき)となって、身体や表情から滲み出ると思うのです。

10、いつも前向きになれるメッセージ
プロ卓球選手・岡紀彦さん

もう46歳、そろそろ……との周りの声や、心の中での葛藤はありますが、

「老感」、「病感」を持たない事

私たちは「障感」も含めて、3語をきっぱり忘れて成長し続けようと思います。

岡さんは、生まれつき骨が弱く中学生までに約30回も骨折を経験。

車椅子というハンディにも負けず、障害者卓球ジャパンカップで21連覇を遂げました。

ピンチをチャンスに変えてきた岡さんの記事を抜粋紹介します。

* * *

ジャパンカップを14連覇した時のことは、いまも印象に残っています。

この時は、大会の2か月前の練習中に右の肩甲骨を骨折してしまい完治していませんでした。

どうせ連覇が途切れるなら出場しないほうがいいかなって大会前日まで悩みました。

ですが、その時思ったのが、1%でも勝てる可能性があるんだったら逃げるべきではないということでした。

試合当日まで痛みが残っていましたが、薬とテーピングで対応し、一本一本を無欲で穏やかな気持ちで戦い続け、優勝できたのです。

国内の大会で人前で涙を流したのは、その時が最初で最後です。

11、12月の言葉

怯まず、驕らず、溌剌と
黒田和生(ヴィッセル神戸アカデミー事業本部長)

刻限は早めに
茶道の教え

大事は軽く、小事は重く
中山素平(日本興業銀行元頭取)

展望は遠く、視野は広く、考えは深く
桜田武(日経連元会長)

一滴の油これを広き池水の内に点ずれば散じて満池に及ぶ
杉田玄白(蘭方医)

一隅を照らす(天台宗)
長谷川一彦(嵯峨野観光鉄道社長)

チャンスをつかみ取るには日頃の準備が必要
岸田周三(レストラン カンテサンスシェフ)

「もうダメだ」と思った時点で終わり
小林郁子(エアーセントラル副操縦士)

人生に口ずさむ言葉を持て
坂村真民(仏教詩人)

惰性を断ち切るには、変化を求め続けること
鍵山秀三郎(イエローハット創業者)

明るい資質なき者は、指揮の座を去れ
中條高徳(アサヒビール名誉顧問)

志定まれば気盛んなり
吉田松陰

ブランドは10秒で崩れる
藤居寛(帝国ホテル顧問)

使った言葉はまた使いたくなる
小林正観(心学研究家)

逆境は神の恩寵的試練である
森信三(教育者)

すべての子どもが独特の光を発している
東井義雄(教育者)

道を楽しむ者は、困難に遭遇するも挫折せず、敢然として道に進む
渋沢栄一

楽しそうにしていると、人が集まってくる
渋澤健(シブサワ・アンド・カンパニー代表取締役)

思い続けたら必ずできる
池田智鏡(天台宗普光寺住職)

自らを灯明とせよ
釈迦

ヘタでいい、ヘタがいい
小池邦夫(絵手紙作家)

言葉を大切にすることは、人を大切にすること
栗木宏美(NPO法人蕗の薹代表)

面白き事もなき世を面白く
高杉晋作

人を残して死ぬ者は上だ
後藤新平

言葉は温かく、正確に使いたい
松平定知(早稲田・立教大学客員教授)

いま生命あるはありがたし
法句経

胆識があって初めて本当の知識人である
牛尾治朗(ウシオ電機会長)

一書の恩徳 萬玉に勝る
夢窓疎石(鎌倉末期の禅僧)

生きるとは学ぶことである
川島廣守(本田財団理事長)

暗黒を嘆くより、一燈を付けましょう
安岡正篤

昨年の暮れに、義理父を亡くし、しばらくブログをお休みしていました。

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