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有賀泰治ブログ

9月の経営方針共有勉強会 スタート

お盆すぎの残暑も歴史的な記録になっているようですが、ともかく、9月に入りました。

当社、自動車関連会社も9月が新しい期に入ります。
また、心新たに頑張って行きます。

経営方針共有勉強会 資料
・・・・・・・・・・・・・・・・・2010年9月1日
・・・・・・・・・・・・・・・・・・有賀 泰治

1、身体を整え、常に上機嫌でイキイキ活動する方法
身体論で有名な齋藤孝

心は捉えどころがないので、まずは身体で型を何度も練習していくとそれに見合った心の形ができてくると考えます。
例えば何度も四股(しこ)を踏んでいると、グッと力が入るような精神状態ができてくる。
イチローも打席に立つ前、ウェイティングサークルで四股立ちの姿勢で肩を内側に入れるストレッチをやっています。
これは上半身、下半身ともにストレッチになって、上虚下実(じょうきょかじつ)の状態をつくりやすい。臍下丹田(せいかたんでん)を中心として上がリラックスして、下が充実している状態です。
上虚下実の状態をつくるには、例えばみぞおちをもむ。
「ムカツク」とは、みぞおちが固くなって胸につかえる感覚で、息を浅く吸ってばかりいて心身が平静な状態になれないことが原因なんです。だから自分でもんで柔らかくする。
あとは肩を大きく回して、肩甲骨(けんこうこつ)周りを柔らかくする。
そうやって全身が柔らかくなって軽くなると、機嫌がよくなるんです。
若い人たちは割とおとなしくて品がいいんですけど、テンションが低いものですから、もっと体をほぐして上機嫌な状態をつくってもらいたいと思うんです。

2、「私はドイツの母親、ドイツの婦人の家庭的な伝統の中に、我われの政治的未来に対する、我われの築くいかなる要塞にも増して、確固たる保証をみる」

鉄の宰相といわれたドイツのビスマルクの言葉である。

どんなに堅固な要塞より、母親が家庭でどういう教育をしているかがドイツの未来を保証する、というのである。

ドイツに限ったことではない。
人格の土台を創るのは家庭である。
一家の習慣、教養、風儀が子どもの人格の核を創る。人を育てる原点である。

家庭で創られた人格の核を土台に人は社会に飛び出していく。
社会への雄飛を橋渡しするのが師と友である。

いかなる師と出会うか。どんな友を得るか。
師友との切磋琢磨によって、人はさらなる成長を遂げていく。

人の生涯は、人を育て人に育てられる連鎖である。

中江藤樹は人を育てることに生涯を賭した人である。

中でも、生来の「愚魯鈍昧(ぐろどんまい)」といわれた大野了佐との逸話は忘れ難い。

3-1、伸びる人の特長
女子マラソンの名伯楽・小出監督

Qちゃん(高橋尚子選手)は素直だったし、明るかったし、何より嫉妬しない子でした。

(よい成績を出した先輩に対して) 本当は嫉妬していたのかも知れないけど表に出さず、
「有森さん、よかったですね!」
「鈴木さん、よかったですねぇ」
と喜んで、
「私も頑張ります!」
というタイプでした。

だから僕はいつもうちの選手たちに口を酸っぱくして言うんですけど、
「自分だけ勝てばいいというのでは一流にはなれないよ」
と。

人間、嫉妬しているうちは本当の福は回ってこない。
たとえライバルだとしても、人の喜びを
「よかったね」
と心から喜んであげて、
「私も頑張るわ」
と発奮材にできるような人じゃないと伸びないと思います。

企業であれば、
「うちも儲けるからおたくも儲けてね」
という姿勢が大事だと思います。

3-2、かけっこと経営には共通点が多い
例えば9時に出社してきて、お茶飲んだり打合せしたりしていたら10分たった。
わずか10分でも、そんな社員が100人いたら何時間の損になりますか?

陸上も同じです。
限られた時間の中でトレーニングするわけですから、その間は真剣勝負しなきゃ負ける決まっていますよ。

よくうちのコーチやアシスタントに言うんですよ。
ケチと節約は違うよって。
節約できないような人はいい指導者にならない。
それから借りたものを借りっ放しにするとか、要するに気遣いできない人は一流の監督にはなれない。

大学を出たばかりの若いコーチに、
「おまえね、女性とデートしてお店に入った時は、最初にトイレの場所ぐらいはチェックしておくんだよ。2時間くらいたって、女性がトイレに立った時、お店の人に“お手洗いどこですか”なんて言わせているようでは一流のマネジャーにはなれないぞ」
と言っているんです。

4、「自分を好きになる」ことの大切さ
眠れる能力を開花させる独自の教育法を実践する
小学校教諭・岩堀美雪

ある時、小学校のクラス全員に家族のよいところを書いて渡すよう課題を出しました。
ある女の子のお母さんの話では、長引く不況でお父さんの仕事が上手くいかなくなっていたというのです。売り上げはどんどん減って、倒産寸前でした。

最愛の娘から一枚の便箋を渡されたのはその時です。そこには、

「お父さんはいつも仕事を頑張っている」

と一言記されていました。

これを見たお父さんは号泣しました。
そして娘のためにももう一度頑張ろうと心を奮い立たせ、それまで以上の努力で傾きかけた事業を軌道に乗せたというのです。

このお父さんはいまもこの便箋を手帳に挟み、全国どこに行くにも持ち歩いていらっしゃるそうです。

一小学校の教師にすぎない私に、最近は企業関係者から多くお声がかかるようになりました。
企業を対象とした私のワークショップは、小学校でやっていることと基本的には変わりません。
自分自身のいいところを書いたり、相手のいいところを出し合ったりして、お互いに自己肯定感を高めていくというやり方です。

競争社会に身を置く大人は他人と比べる機会が増え、自分には何もいいところがないと思い込んでしまいがちです。
自己肯定感が育ちにくいだけに、逆によいところを評価された時の喜びは大きいようです。

人間には所属欲求というものがあります。
ある集団で自分の居場所を確保したいという欲求は、時に生存欲求より強くなります。
子供たちがいじめによって自分の居場所を確保できず、死を選んでしまうのもそのためなのです。

その意味でも、まず自分で自分を認める自己肯定感が重要であり、私たちを成長させる力の源泉もそこにあるといえます。

5、『10代の君たちへ 自分を育てるのは自分』
長崎に、原子爆弾が落ちました時、東井義雄先生の講演録
  
当時、10歳であった荻野美智子ちゃんという、 女の子の作文をちょっと聞いてください。

雲もなく、からりと晴れたその日であった。

私たち兄弟は、家の2階で、ままごとをして遊んでいた。

その時、ピカリと稲妻が走った。あっというた時には、もう家の下敷きになって、身動き一つできなかった。

 (大きいお姉さんが水兵さんを4、5人呼んできて、美智子さんは救出されました。しかし……。)

その時、また向こうのほうで、小さな子の泣き声が漏れてきた。
それは二つになる妹が、家の下敷きになっているのであった。

急いで行ってみると、妹は大きな梁(はり)に足を挟まれて、泣き狂っている。
4、5人の水兵さんが、みんな力を合わせてそれを取り除けようとしたが、梁は4本つづきの大きなものでビクともしない。

水兵さんたちは、もうこれはダメだと言い出した。
よその人たちが水兵さんたちの加勢を頼みに来たので、水兵さんたちは向こうへ走っていってしまった。

お母さんは、何をまごまごしているのだろう、早く帰ってきてください。
妹の足がちぎれてしまうのに……。
私はすっかり困ってしまい、ただ背伸びをして、あたりを見回しているばかりだった。

その時、向こうから矢のように走ってくる人が目についた。
頭の髪の毛が乱れている。
女の人だ。裸らしい。むらさき色の体。
大きな声を掛けて、私たちに呼びかけた。

ああ、それがお母さんでした――。

「お母ちゃん!」

私たちも大声で呼んだ。

あちこちで火の手があがり始めた。

火がすぐ近くで燃え上がった。お母さんの顔が真っ青に変わった。
お母さんは小さい妹を見下ろしている。
妹の小さい目が下から見上げている。
お母さんは、ずっと目を動かして、梁の重なり方を見回した。

やがてわずかな隙間に身をいれ、一ヶ所を右肩にあて、下くちびるをうんとかみしめると、うううーと全身に力を込めた。
パリパリと音がして、梁が浮かび上がった。

妹の足がはずれた。

大きい姉さんが妹をすぐ引き出した。
お母さんも飛び上がってきた。
そして、妹を胸にかたく抱きしめた。
しばらくしてから思い出したように私たちは、大声をあげて泣き始めた……。

お母さんは、なすをもいでいる時、爆弾にやられたのだ。
もんぺも焼き切れ、ちぎれ飛び、ほとんど裸になっていた。
髪の毛はパーマネントウエーブをかけすぎたように赤く縮れていた。
体中の皮は大火傷で、じゅるじゅるになっていた。
さっき梁を担いで押し上げた右肩のところだけ、皮がべろりと剥げて、肉が現れ、赤い血がしきりににじみ出ていた。

お母さんはぐったりとなって倒れた。
お母さんは苦しみはじめ、悶え悶えてその晩死にました。

————————————

東井 : これは、特別力持ちのお母さんだったのでしょうか。

4人も5人もの水兵さんが、力を合わせてもびくともしないものを動かす、力持ちのお母さんだ      ったのでしょうか。

皆さんのお母さんも、皆さんがこうなったらこうせずにはおれない。

しかもこの力が出てくださるのが、お母さんという方なんです。

女子の皆さんは、やがてこういうお母さんになってくれりゃならんのです。
女になることはいいかげんなことじゃないんです。

6、過酷な任務をいかに成し遂げたか
約2000社もの企業再建に関わり、「日本のカルロス・ゴーン」と呼ばれる長谷川和廣氏

企業再生という仕事は、いわば死にそうな人を生き返らせるものだから、相当なエネルギーが必要です。数が多ければ多いほど大変であることは事実です。

あらゆる手を打って、打って、打ちまくって、それでもどうしようもなくて、トランキライザー(精神安定剤)を飲み続け、一時48kgまで目方が落ちたことがあります。

別の企業の時のことですが、もうどうしようもなくなって、どういう心境だったのか分かりませんが、箱根の塔の沢のお寺に行ったんです。

心ここにあらずという感じでふらふらと境内を歩いていたら、住職が出てきて「上がりなさい」
と。そうして書いてもらったのが
「心に塵(ちり)一つなし」
という言葉でした。

何かとても納得するところがあって、現場に戻って無心で物事を進めていくと、
「長谷川さんがそこまで言うなら分かった」
といって好転し始めた経験があります。

おそらく何の仕事でも、まずはとことんやる。それがなかったらダメですよ。初めから「なるようになれ」というのは手抜きです。

本当にやり尽くした上で無心で取り組めれば、物事というのは叶えられていくものではないかというのが、私の40年に及ぶ会社再建人生での実感です。

7、<国境を越えた愛 ~クラウディアの手紙>

 戦後の混乱が続く平壌で、蜂谷彌三郎さんは、身に覚えのないスパイ容疑でソ連の将兵に連行されました。
 厳しい取り調べの末に科せられた七年間の強制労働。
 氏は、極寒のシベリアで幾度となく死を覚悟し、絶望感、孤独感にさいなまれ続けます。

 しかし、やがて出会った一人のロシア人女性、クラウディアさんとの出会いが、蜂谷さんの運命を大きく好転させていくことになります。
それから三十年以上の時を経て、蜂谷さんが無事、帰国を果たせることになった時、クラウディアさんは蜂谷さんに一通の手紙を贈ります……。
「運命をひらく」より
************************************
私が家族と再会したのは一九九六年八月でした。
駆け寄ってきた娘を抱くと、五十一年前に乳飲み子だった娘の頭に白髪があるんです。
時の流れを感じました。

クラウディアと友人たちが温かく歓迎してくれ、その時に家内が五十年間、再婚もせずに私をただ一途に待ち続けてくれていたことを知りました。

クラウディアは私を帰国させるために、私に内緒で帰国同意書を作り、シベリア鉄道で片道十一時間かかる、ハバロフスク日本総領事館に提出していました。
私が元気なうちに、一日も早く帰国させねばと必死だったのでしょう。

そして、あの日から翌年三月の別れの日まで、私たちが飼っていた緬羊の羊毛を紡ぎ始め、徹夜で温かいセーターやソックスをいろいろと編み始めました。

私に持たせ、贈りたかったのでしょう、一所懸命でした。今年の冬もそれを着る心算です。

帰国する前、クラウディアが書いた私あての手紙があります。

   時々、思い出してください。ロシアを、プログレス村を……。

   私たちは思いもよらない人生での出会いをしました。
   似通った運命が私たちを引き寄せたのでした。

教会で結婚式を挙げずとも、誠実の誓いを行わずとも、私たちの人生は誠実で、そして神聖   でした。

私たちの暮らしは、決して裕福でも贅沢でもありませんでした。
   私たちの人生は、常に恐怖のもとで過ぎていったのでした。

   どうか、あんな疑いが二度と繰り返されないように。
   どうか年老うるまで安らかに生き永らえますようにと、 長い年月、朝夕、祈っていたのでした。

   一切の責任は戦争にあるのです。

   私は、心からあなたを理解しておりました。
ご両親や弟妹、たった生後一年余りで別れた娘さんや奥さんがいる祖国を、恋しく思うあなたの心のうちを……。 

私たちは、こまごまとそのすべてを思い浮かべて、涙とともにいつも思い出話は尽きませんでした。

食事の時間も忘れて身を砕くようにして、ただ一心不乱に働きましたね。

   そして、長い年月が流れました。
   私たちはようやく、その人たちが健在であることを知ったのでした。
   
娘さんやお孫さんたち、それに年老いた奥さんが一途にあなたの帰りを待ち焦がれておられ   ることを……。
  
いま、年老いたあなたが多くの病を抱えて、一切が失われたようだった祖国へやっと帰っていくのです。
奥さんや娘さん、お孫さんたち、 弟妹、友人たちが待っている祖国へと……。

   もはや私たちは、再び会うことはないでしょう。
   これも私たちの運命なのです。

   他人の不幸の上に私だけの幸福を築き上げることは、私にはどうしてもできません。

   あなたが再び肉親の愛情に包まれて、祖国にいるという嬉しい思いで、私は生きていきます。
   私のことは心配しないでください。

   私は自分の祖国に残って生きていきます。
   私は孤児です。

   ですから、私は忍耐強く、勇敢に生きていきます。
   私たちは、このように運命づけられていたのでした。
   
三十七年余りの年月をあなたと共に暮らせたこと、捧げた愛が無駄ではなかったこと、私はこの喜びで生きていきます。
涙を見せずに、お別れしましょう。
   
過去において、もし私が何か不十分なことがあったとしても、あなたは一切を許してくださると思います。
   
あなただけは、この私を理解してくださると信じています。
   私が誠実な妻であり、心からの友であったことを……。
   あなたたちの限りない幸せと長寿を、心から祈り続けることをお許しください。

8、8月の言葉

どんどん変えよう すばやく化わろう
岡本太一(鍋屋バイテック会社会長)

汝の立つところを深く掘れ、そこから泉が湧くであろう
ニーチェ

国を支えて国を頼らず
北康利(作家)

人は苦しみから逃げれば逃げるほど苦しくなる
長田百合子(日本家庭教育再生機構理事長)

自分が変わらなくては子供は変わらない
木村治美(親学推進協会会長)

今日一日決して腹を立つまじき事
塩瀬総本家家訓

人知れず見返りを求めない無償の行為をする
松崎一葉(筑波大学大学院医学系教授)

私たちの命は一瞬一瞬が奇跡
渡辺知子(ミュージシャン)

働くことがいかに人間を成長させるか
大山泰弘(日本理化学工業会長)

自分に嘘をついてはならない
加藤諦三(早稲田大学名誉教授)

真心が、最後には勝利を占める
松原泰道(南無の会会長)

好景気よし、不景気なおよし
松下幸之助

善行は人知れずするものだ
安田善次郎(安田財閥の祖)

頭で考えているうちは、物事は何も進みません
大谷賢二(カンボジア地雷撤去キャンペーン代表)

やってやれないことはない
やらずにできるわけがない
今やらずしていつできる
わしがやらねばだれがやる
平櫛田中(彫刻家)

そもそも人間というものは、情熱を失わない間だけが、真に生きていると言ってよいのです。
内面的情熱の枯渇した時は、すなわち生命の萎縮した時と言ってよいのです。
森信三(教育者)

イージーな道と険しい道があったら、誰もやっていない険しい道を選びなさい
今村哲也(早稲田大学大学院客員教授)

死んだ時が限界で、それまでは進歩することを考えている
中川一政(日本画家)

一流の人はみな明るい
村上和雄(筑波大学名誉教授)

どんな状況でも笑って生きていく
高柳和江(医学博士)

今を精一杯生きた者だけに、素晴らしい栄冠がある
塙昭彦(セブン&アイ・フードシステムズ社長)

自分が言ったことは自分に返ってくる
佐藤富雄(医学博士)

私は本当に運のいい男だと1日に20回も言いました
松下幸之助

感謝、使命感は計り知れないパワーを与えてくれる
西田文郎(サンリ会長)

9つまで満ち足りていて、10のうち1つだけしか不満がない時でさえ、人間はまずその不満を眞っ先に口から出し、文句をいいつづけるものなのだ。
三浦綾子(作家)

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