fbpx
MENU

有賀泰治ブログ

7月の経営方針共有勉強会

中途採用ですが5月なかばから、F・H・Aつかま工場に新人が入社しました。
右の手前 青木貴弘 くんです皆さん宜しくお願い致します。

経営方針共有勉強会 資料です。

2010年7月1日
有賀 泰治

1、だから縁や運というものは、求める強さ、努力に応じてその人に合ったものがみつかるのではないでしょうか。

よく世間では、私は出逢いがない運がないと嘆く声が聞かれます。

しかし、つめるところ、運や出会いは決して偶然では得られないということがこの言葉に込められています。

どれだけ強い力で求めているのか、どれだけ努力しているのか、まずは自らに問い直してみる
必要があるかもしれません。

『板橋宗興氏の言葉』
お相手は、フジゲン会長の横内祐一郎氏。
対談の中で、横内氏の奇跡のような出会いの回想話より

2、若い人に贈る言葉

学問には、
「志あるを要す、恒(つね)あるを要す、識あるを要す」と。

これは、中国の有名な曾国藩という人の家訓にある言葉です。

① 「志あるを要す」は、
例えば人が歩くときどちらの方に歩くかという方向を決めずに歩くことは不可能だ。まずは自分はどっちに行こうとしているのかを決めるのが肝心。

② 「恒(つね)あるを要す」は、
何でも持続せんといかんということ。
いっぺんやったら事が済んだと思うたらあかんのです。同じことを常に繰り返してやる。
ぼくは書物を読むとき、重要なこと、いいなと思うことは書きながら読む。そして読み終わったときに、書いた紙を見て復元してみるわけです。それを2,3回やると、ほんまのこと覚える。
読んだことを自分の身につけるためには、繰り返さないといかん。そして要約して肝心要のことは頭の中に打ち込んでおく。すると、後でその見出しの部分を打てば、ある程度ぱっと広がって内容が出てくる。これが大事なんです。

③ 「識あるを要す」は
単に分別するということではなくて、価値判断ができなければね。愚にもつかんようなことを一所懸命覚えても何にもならん。知識は断片的では役に立たんのです。
一つの面積、できれば立体的、構造的になるのがよろしい。
自分の持っておる過去の知識体系の中に、それをどのように組み込むかということなんです。
単なる部分は消えてしまうが、全体の中の部分であれば、忘れることはない。

一見、難しいように思えますが……
ただ知識を蓄えるだけでは、単なるもの知りになってしまいます。
その知識の価値判断を身に付けて、知識をうまく使っていきましょう。ということではないでしょうか。
立命館大学名誉教授
白川静氏。
この言葉は白川氏が90歳にして発せられたものです。単に年齢的なものではなく、我こそは青春真っ只中という方に心に留めておいていただき言葉だと思います。

3、「最強棋士の勝負哲学」

①(「プロ棋士に共通する資質はありますか?」の質問を受けて)

やっぱり勝負に対する執念はものすごいですよね。
簡単にいえば「負けず嫌い」。
なんだ、当たり前だと思われるかもしれませんが、僕は「負けず嫌い」にも段階があると思っています。
まずは
「その場だけの負けず嫌い」。
勝負の世界に限らず、負けるのが好きという人はそうそういませんから、やはりやるからには当然勝利を目指すわけです。
しかし、それがその場限りのものであっては「負けず嫌い」とはいえないと思うんですね。
自分が勝ちたい、もっとうまくなりたいと思ったら、練習を積んだり体調を整えたり準備をするはず。
これが次の段階です。
趣味で取り組んでいるものであれば、正しい努力と準備を行っていけば、相当のレベルにまで到達すると思います。
しかし、「真の負けず嫌い」は、さらにもう一段階上じゃないかなと。
それは
「自分の人生のすべてを賭けて」
という部分が加わってくると思うんです。
一道を極めている人は、必ずどこかの時期でこの経験をしていると思います。
囲碁のように白黒はっきりつく勝負の世界に限らず、事業家でも芸術家でも、どこかで人生を賭けた大一番の勝負をしているはずです。
一度は寝食を忘れ、すべてを注ぎ込む時期を経ない限り、道はひらけていかないと思います。

②「どんな時でもいい加減な碁は打たない」「囲碁にマイナスになることはしない」 という、自分が決めたルールを守っています。

些細なことですが、しかしその些細なことの積み重ねが、プレッシャーのかかる場面で自分自身を支える力になっているように思います。
張栩(囲碁棋士)       
       『致知』2010年7月号
        特集「道をつくる」より

4、「善因善果」
         
お釈迦様に弟子の阿難尊者が、「善き友を持てば、仏道修行を半ばは成就したことになると思いますが、いかがでしょうか」と尋ねたところ、お釈迦様は、

「それは違う。仏道修行のすべてである」とお答えになったという逸話があります。

私は来年米寿を迎えますが、きょうまでの紆余曲折の人生を振り返れば、このお釈迦様の教えに深い共感を覚えずにおられません。
善き友に恵まれるか否かは人生の幸、不幸を大きく左右することを実感しています。

私は東部軍官区司令部参謀部の中尉として終戦を迎え、戦前に勤めていた銀行に戻った後、昭和二十三年に独立。東京で商売を始めました。
最初は、故郷栃木の名産である下駄を扱いましたが、あえなく失敗。商売の厳しさを実感した私は、捲土重来を期して、昭和三十四年に新宿の小滝橋でレンタカー業を始めました。
自動車教習所近くの好立地で営業したことと、他社の扱う車がほとんど中古車であった中で、新車をズラリと揃えたことが評判となり、業界二位へと急成長を遂げました。

景気の雲行きは、東京オリンピックを過ぎたあたりから怪しくなりました。
いずれ大手自動車メーカーもこの事業に参入してくると予測した私は、昭和四十二年に自動車用品販売業へと転身を図りました。
他社が千円で売っている商品を九百八十円で、二千円で売っている商品を千九百八十円で売る私の安売り商法は、業界の枠を超え、いまでは小売りの常識となっていますが、この商法によって会社は再び大きな収益を上げるようになったのです。
とはいえ、必ずしも商売は順風満帆ではありませんでした。昭和三十二年には資金繰りの目処が立たなくなり、このまま行けば不渡りを出すところまで追い詰められました。
お金の手立ては前日になってもつきません。どうせ裸で東京に出てきたんだ。会社がダメになったからといっても、またもとの裸に戻るだけだ――。

私は腹を括りました。

ところがその日の夜八時、突然に昔の友人から電話がかかってきたのです。

浅草から故郷の足利へ戻ることになったので、その前にどうしてもおまえに会いたいとのこと。
彼の声を聞くのは実に十年ぶりのことでした。
私はすぐに車で迎えに行き、時のたつのも忘れて積もる話に花を咲かせました。
夜も白々と明ける頃、そろそろ送ろうか、と切り出すと、彼はおもむろに預金通帳と印鑑を私に差し出して言いました。

「これを使っておけ」

その口座には、何と五十万円もの大金が入っていました。
私は彼を見送った後、すぐに銀行に駆け込み、何とか不渡りを出さずに済みました。
支払期限の二時間前でした。
何とも不思議な体験でした。
電話がかかってくるまで十年間、私は彼とは一度も連絡を取っていませんでした。彼と話をしている間も、お金で困っていることなどひと言も言っていません。

後に彼と思い出話をする中で、当時のお礼を改めてすると、

「それはおまえのおかげだ」

と彼は逆に私に感謝するのです。すっかり忘れていましたが、私は戦時中に、米軍の上陸を想定して水戸郊外で塹壕掘りをしていた彼の部隊を見舞ったことがありました。
司令部参謀部という軍の枢要にいる私と彼が親しいことを知ったその部隊の隊長は、彼を当番に命じました。
それによって過酷な労働から解放され、快適な旅館住まいをさせてもらった恩を、彼はずっと忘れなかったというのです。

善因善果、善きことをすれば善きことが返ってくる。

そしてその積み重ねが、善き友に恵まれ、自分の運命を大きく開くことにも繋がってくる。
若き頃より『法華経』に帰依していた私は、この体験を通じて、お釈迦様の教えの尊さを実感しました。

善因善果を実感する体験は、これまで数限りなくありますが、もう一つここでご紹介しておきたい話があります。

私の少年時代は劣悪な栄養事情のせいもあり、五人いたきょうだいの三人が次々と病没。
私も商業学校に通っていた頃、腎臓を患いました。
前年、弟が腎臓病で急死したこともあり、私の発病を知った両親の悲しみはたとえようもありませんでした。
その姿を見るに忍びなく、私は病気は治ったと嘘をつき、親が亡くなるまで二十五年間、医者にかかることも、薬をのむこともせず病気を隠し通しました。
結局、昭和三十四年に左の腎臓を摘出しましたが、そのため背中に大きな傷跡が残りました。

ところがこの大きな傷が、私の四人の子どもに対する何よりの教育になったのです。

彼らは、こんな体になってまで家庭を必死で支える父親に対して、少しでも報いてゆきたいと、子どもながらに思ったのでしょう。
家計の苦しい時も一切愚痴を言うことなく、大した教育環境を与えてやることもできませんでしたが、学校では皆トップレベルの優秀な成績を収め、耳鼻咽喉科医師、眼科医師、薬剤師、音楽教諭としてそれぞれに活躍しています。
子どもたちがいつも私の体を気遣ってくれるおかげで、片腎できょうまで元気に過ごすことができました。
優しい子どもたちに囲まれ、いまは幸せを噛み締めて毎日を過ごしています。
これも親を思い、我慢を貫き通した私に対する天のご褒美と受け止め、辛かった病気に心から感謝をしています。

先日、長年続けてきた寄付活動に対して、日本赤十字社より表彰状、及び有功章を賜りました。
人間がこの世に生まれてきた目的は、少しでも世のため、人のためお役に立つことです。
この本来の目的から離れることなく、私はこれからもできる限りの善根を積んで、善きご縁を結んでまいりたいと思います。

出井弘八(いでい・こうはち=セイワみずほ相談役)
               『致知』2008年12月号「致知随想」
             ※肩書きは『致知』掲載当時のものです

5、「躾の三か条」(森信三先生) 

家庭教育は具体的に何をすればよいのでしょうか。
その根本はまず「躾」から始まり、これが人間教育のスタートとなります。

森信三先生は、躾の根本は三つの事柄を徹底させればよい、この三つの躾を真に徹底すれば、それだけで人間としての軌道に乗るとおっしゃっています。

これが有名な「躾の三か条」です。

第一、朝必ず親にあいさつをする子にすること

第二、親に呼ばれたら必ず、
「ハイ」とはっきり返事のできる子にすること

第三、履物を脱いだら必ずそろえ、
   席を立ったら必ずイスを入れる子にすること

平凡な、分かり切ったことと思われるかもしれませんが、
そこに実に深い意味があるのです。

       * *

朝の挨拶によって前向きな姿勢が、「ハイ」という返事で素直さが養われます。

コップの口が下向きになっていたのでは水を注ぐことができません。上向きにすることで入っていきます。
子供の我を取り、上向きのコップのように前向きで素直な心を養うのが、挨拶と「ハイ」の返事なのです。
そして履物を揃え、イスを入れる習慣を身につけることで、人生でも仕事でも大切な、後始末のしっかりできる子になるのです。

心得ておかなければならないのは、躾はお説教では決して身につかないということです。

森先生は、ではどうすればいいのかという具体的な着手点まで落とし込んで教えてくださっています。

挨拶をする子にするためには、まず母親から我が子に挨拶をすることです。
こちらから「おはようございます」と言えば、子供も「おはようございます」と応えます。

最初は子供も面食らい、ボソボソとした挨拶しか返ってこないかもしれません。それでも母親が笑顔を絶やさず、根気よく続けていくうちに、しっかりとした挨拶が返ってくるようになるのです。

「挨拶をしなさい」と何回言っても身につきませんが、こちらから具体的な行動を毎日投げ掛けることで、子供もそれに応じ、それが習慣となるのです。

「ハイ」の返事を躾けるにはどうしたらよいか。それにはまず母親が、ご主人に呼ばれたら必ず「ハイ」とはっきりした返事をするよう努めることです。

子供は母親の様子をしっかりと見ています。母親が父親の呼び掛けにいつも素直に応じる姿を見れば、子供も返事の大切さを実感してそれに倣うようになるのです。自ら模範を見せることの大切さは、
履物を揃えること、イスを入れることについてもいえます。

躾にも適期があり、できればこの三つの躾を、小学校へ入学するまでに身につけさせたいものです。

      
            寺田一清(不尽叢書刊行会代表)         
       『致知』2010年4月号
        特集「発展繁栄の法則」より

6、
憎しみというのは 自分自身への批判だと私は考えます。
誰かを憎むということは 自分自身を批判していることになり、その人自身を停滞させてしまいます。
       
イハレアカラ・ヒューレン(心理学博士)
『致知』2010年7月号
 特集「道をつくる」

7、男が我が子に遺すべきものは、お金ではありません。

自分の生き方です。生き方の流儀こそが何よりの遺産となるのです。

国民教育の師父と謳われた教育者・森信三師に仕えた寺田一清氏。森師の教育哲学の伝道者として、日本の教育再建に奔走されています。

寺田氏いわく、
森師は「家庭は人間形成の道場」と喝破され、子供の教育においては、何より家庭が重要であることを説かれています。
父親の権威が失墜し、家庭崩壊の進むいまでは、男は家庭でどんな役割を担うべきでしょうか。

森師が説かれる父親の役割は、自分の人生観にもとづいて人間としての生き方の方向を示すこと、子供に生き方の種まきをするところにあるとのことです。

子供は、親の言うとおりにはしないけれども、親がするようにはする、ともいわれます。父親はガミガミとお説教をする以上に、自分自身が一人の人間としてどう生きるか、日々どんな姿勢で歩んでいるかが大事です。
ご参考までに、寺田先生が実践しておられる日常実践の5か条をご紹介します。

 あ: あかるいあいさつ 人より先に
 す: スマイル楽し 而今(にこん)ニコニコ
 こ: こしぼね立てて 行事一貫
 そ: そうじの偉力 身心浄化
 は: はがき一枚 縁の花咲く

日々の実践を通じて、子供によき影響を与えてゆける人間でありたいものです。

寺田一清(不尽叢書刊行会代表)

8、「成功者の習慣」

毎朝目が覚める時に、 私に奇跡が起きた!
子どもにも孫にも奇跡が起きた!
そう思ってお日様に「バンザーイ」と万歳三唱をして、
「ありがとうございます」と合掌することから
一日をスタートさせる

吉丸房江氏(健康道場・コスモポート主宰)
      

9、「岡田武史監督の勝負哲学」 監督の仕事とは、つまるところ決断

中田英寿が代表の時、僕の打ち出した方針に対して「いや自分はこういうサッカーをやりたい」と言ってきました。

「分かった。ただ、俺は監督として全責任を負ってこういうサッカーをやる。おまえに力があることは分かっているから、従ってくれたら嬉しい。だが、おまえがどうしても納得できないというのであれば、残念だが諦めるから出て行ってくれ」

というスタンスで話しました。その時、肩を叩いて
「頼むからやってくれ」
とやったら、これはチームにならないんですね。

僕らの仕事は決断なんです。

で、正解がないんですよ。この手を使うか、それとも別の手を使うか。こっちを使えば勝率何%って絶対でないです。しかし、だからって最初から感覚でやると大体失敗します。とことん苦しんで考え抜かないといけない。こうしたらどうだろう。相手がこう 来たらどうしよう。

でも、最後はどこかでエイヤッと決断しなきゃいけない。

その時、メチャクチャ勇気が要るわけですよ。全責任を負って一人で決めなきゃいけない。やっぱり孤独で怖いですよ。
そのエイヤッが外れた時は惨めですからね。しかしこのエイヤッができないと、チームがズルズルと負けに向かっていってしまう。最後の最後の勝負どころなんです。
先発に誰を選んで、どんな作戦をしいて、途中には誰と誰を交代させて……。
監督をはじめ、あらゆる職業においてリーダーの仕事とは決断すること、と言ってもいいかもしれません。
 
10、森信三師の特集

① 真に生き甲斐のある人生の生き方とは、つねに自己に与えられているマイナス面を、プラスに反転させて生きることである

② 人間は自己に与えられた条件をギリギリまで生かすという事が、人生の生き方の最大最深の秘訣

③ 人間は、進歩か退歩かの何れかであって、その中間はない。現状維持と思うのは、じつは退歩している証拠である

④ 縁は求めざるには生ぜず。
内に求める心なくんば、たとえその人の面前にありとも、ついに縁を生ずるに到らずと知るべし

⑤ 物にもたれる人間は、やがて人にもたれる人間になる。
そして人にもたれる人間は、結局世の中を甘く見る人間になる

11、6月に出会った言葉

① 物をはかるは、物差し。心をはかるは、志。  
佐々木将人(合氣道師範)

② 志の高さとは、自分の努力によって幸せにできる人の数
西田文郎(サンリ会長)

③ 毎朝歯を磨くように、心構えも毎朝磨き直さなければならない

田中真澄(社会教育家)

12、難病と闘う子どもたちの夢を叶える

メイク・ア・ウィッシュは「願いごとをする」という意味で、難病と闘う子どもたちの夢や願いをかなえるため、昭和55年にアメリカで設立された国際的なボランティア団体です。

私が活動に参加した平成6年は、東京に事務局ができたばかりの開拓期でしたが、いまや登録ボランティアの方の数も、800人を数えるまでになりました。

ムコ多糖症という病気にかかっていた正平君という子がいました。
全国でも70人しかいないという難病で、血液中の老廃物がたまって脳を圧迫するために、
徐々に人間的な感情がなくなり、言葉を忘れ、コミュニケーションがとれなくなるのです。
ところが正ちゃんは、
「イルカと遊びたい」
という願いをかなえていく中で、言葉をどんどん取り戻していったのです。

もっと感動的だったのは、その日は正ちゃんの誕生日だったので、みんなで誕生パーティーをしたんです。
それまでは誕生日がくるたびに病気が進むから、お母さんはとてもお祝いなんかする気になれなかったそうなんです。
でもみんなで
「おめでとう!」
って言ったら、正ちゃんは嬉し涙をポロポロと流して、
「ありがとう」
って言ってくれたんですよ。本当にびっくりして、みんな胸がキュンとしました。

また、すべての子がそうなるわけではありませんが、あと数日しか持たないと言われた子が、持ち直すことだってあるんですよ。

雄貴君は、ウェルドニッヒホフマン病にかかって、自力で呼吸することができず、まばたきが唯一の表現手段でした。
彼の願いは、
「ウルトラマンと一緒に戦いたい」
というものでした。
そこで、岐阜から熊本にあるテーマパークまで行き、雄貴君のための特別台車でウルトラマンと怪獣が闘い、雄貴君も一緒に目で闘ったんです。
そして怪獣をやっつけたウルトラマンから、
「雄貴君、君のおかげで怪獣を倒すことができた」
と言ってもらったんです。雄貴君は生後1か月で人工呼吸器を付けることになったのですが、その呼吸器になかなか慣れずに苦しんでいる姿を見てお母さんは、このまま生きていくことがこの子にとって本当に幸せなことなのかって、すごく悩んでいたそうなんです。
だけどそのとき
「雄貴、生きててよかったね。 こんなに嬉しいことがあるんだもの」
って涙ながらにおっしゃったんですね。
その直後、雄貴君は一時生死の境をさまよいました。
そのときお父さんは思わず、
「雄貴、今度はお前が ウルトラマンからパワーをもらえ!」
と叫んだんです。
そうしたら何と、雄貴君は奇跡的に危篤状態を脱したんです。
あるお母さんから、
「いままで、子どもと自分たちだけが病気と闘っているような気でいましたが、たくさんの人が応援してくれていることに気づいて、すごく嬉しく思いました」
と、ボランティア冥利に尽きるような言葉を頂きました。そのときは、飛び上がるくらい嬉しかった。

そんな言葉を頂けるのも、1人ひとりを大切にしているからだと思うんです。私たちは、毎回たった1人のために、多くの方々から頂いた支援金を使わせていただいて、願いをかなえるお手伝いをしているのです。でも、そんなお金があるなら、もっとたくさんの子にいろんなことができる、と言われることもあるんですね。
確かに、何百人もホールに集めて
「みんな頑張れよ」
とやったほうが効率はいいでしょう。
でも、自分1人のために
「○○ちゃん、頑張れよ」
と言ってくれたら、重みがまったく違うんです。
だからこそ、奇跡を起こすほどの喜びも生まれるし、それに接した周りの人間がものすごいエネルギーをもらえるんです。

結局、与えられることのほうがずっと多いんです。願いがかなって喜ぶ子どもたちの笑顔や、ときには奇跡のような出来事に接することで、ものすごくエネルギーをもらえるんですよ。
ボランティアの人がこの仕事にのめり込んでいくのも、そこなんです。

ボランティア団体、
メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパン事務局長、
大野寿子さんの記事

ブログ一覧へ

カテゴリー

    最近のコメント

      アーカイブ

      有賀泰治ブログ
      月別アーカイブ

      - サービスメニュー -