お釈迦様(ブッダ)生誕の地、ルンビニへ巡礼(世界遺産)2月19日
成道の地 - ブッダ・ガヤー
初めて説法した - サールナート
入滅の地 - クシナガール
と並んでブッダの生涯にちなむ4大聖地、ルンビニへ巡礼をしてきました。
紀元前249年には、インド・マウリア帝国のアショーカ王がこの地を参拝し記念に石柱を建立した。その後仏教徒の巡礼地になっている。特に、唐代の玄奘三蔵も636年に詣でている。玄奘の『大唐西域記』には、アジョーカ王の石柱は落雷のために中ほどから折れていたという。
(孫悟空や猪八戒、沙悟浄があばれて折ってしまったのか!!!)
14世紀には巡礼の記録は途絶えてしまい、インド、ネパールを支配したイスラム勢力によってルンビニは破壊され廃墟と化した。そのアショーカ王の石柱も埋もれて人々から忘れ去られてしまった。
1896年『大唐西域記』の記述をもとにインドの考古学者フューラーが石柱を再発見した。その後多くの考古学上の発掘が続き、また、ルンビニが巡礼の地となった。
その後、ルンビニは開発公団が発足し日本の建築家、丹下健三のデザインしたマスタープランに従ってルンビニ園として各国寺院の建設が進められている。
カトマンズからバイラワ空港まで空路40分、飛行機の離陸予定時間は1時間以上の遅れ、上空が霧のためとか!
空路右側にヒマラヤの山々が見えます。
羽の向こうは8,000メートル級の『マナスルかアンナプルナ』だと思います。
その向こうは中華人民共和国チベットです。
山の高さもさることながら、中国チベット奥深くまで続く山の険しさは圧巻です。
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ルンビニ到着 ↓
空港からルンビニへは自動車で30分、道路沿いの景色はカトマンズとは一変して周辺は田園らしきのどかな風景がつづきます。時々道路沿いのバス停など周辺に店が出ています。雑貨、井戸の手漕ぎポンプ、両替所、ポリスBOXなどがならんでいます。
ルンビニ園
まず始めに、日本山妙法寺に参拝、
ルンビニのマスタープランによって各国のお寺が建設されています。東南アジアの各国の他にドイツ寺があるのは印象的でした。
橘 会長(宝輪寺方丈)、小笠原隆元広澤寺方丈による般若心経を全員で唱え、また小笠原方丈のサンスクリット語でのお経をあげました。
ルンビニ博物館と図書館
政府の休日で閉館していました。・・・残念
聖域地区
菩提樹には色とりどりの経文を刷り込んだ『タルチョ』がにぎやかに飾られている。
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アショーカ王の石柱
石柱には古代ブラミー文字による碑文が刻まれている。
小笠原方丈によれば、その文字の解読は何年もかかり、歴史的な発見だということが判明したとの事。
文字の内容は
『アショーカ王は即位20年を経た年に、ブッダ生誕のこの地に巡礼した。住民の租税を8分の1に減税する』
2,250年前の石柱には古代文字が刻まれています。
地中に埋まっていたところまでは石の色が変わっています。
地上に出ていた箇所には、イスラム教徒の文字が刻まれ、長い歴史の変遷が感じます。
鉄製のリングは割れた石柱が分解しないようにしてあります。
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後でガイドブックを読みましたが、全く同じ事を説明していました。
この石柱にも我々はお祈りしましたが、他の巡礼者も祈りをささげていました。
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ネパールの巡礼者 ↓
マーヤー聖堂
聖堂内部は紀元前3世紀から7世紀にかけての礎石が保存され、アショーカ王が置いたと伝えられるブッダ生誕の場所を示すマークストーンがある。
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遺跡から発見されたブッダ誕生を描いた石像が置かれているが、その石像はイスラム教徒によって表面が削りとられてしまっている。
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ブッダの足跡と伝えられるレンガ
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聖堂内に入った頃、カンボジアからの団体巡礼者と遭遇、何十人も入って来て、お経を唱え、香水をまき、右回りに3回聖堂内を歩きながら祈りをささげていました。
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プスカリニ池
ブッダの生母、マーヤー夫人が出産まえに沐浴し、太子の産湯にも使ったと伝えられる池。
観光地にもなっているので、池の水はにごって汚い、亀も泳いでいます。
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平和の火
ルンビニ園、聖域地域の北側にブッダの教えを象徴する『平和の火』
ここから北にかけて訳1,5km運河が建設中でした。建設重機は無く、人力によって建設されています。
その運河の両側に14各国のお寺が建造されています。
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